解題
亀崎神社は、戦国時代には高陽町(広島市)の東半分にあたる落合・深川・狩小川の地域と安芸町(広島市)の東半分を占める福木地区を注連下(しめした)とする大社であったと推察される。現在は旧深川村の鎮守社になっている。
一 毛利弘元下知状并同元就証判(切紙)
(任先例可勤之)
深河上分大小社頭奉幣等并注連役、[ ]者也、仍下知如レ件、
(1505)
永正貳年
十二月十三日 弘元(花押)
(異筆)(1541)
「天文十年
十二月廿三日 元就(花押)」
民部大夫所へ
「書き下し文」
深河上分の大小社頭の奉幣等并に注連役、先例に任せ之を勤むべき者なり、仍て下知件のごとし、
「解釈」
深川上分の大小の神社の奉幣やそれらを管轄する役は、先例のとおり勤めるべきものである。よって、下知状の内容は以上のとおりである。
「注釈」
「深河上分」
─深川郷は、現在の広島市安佐北区高陽町の東半分で、下深川・中深川・上深川・狩留家・小河原・福田(現東区)あたり。十六世紀になると、深川は上分と下分に分かれる(『広島県の地名』)。
「民部大夫」─未詳。亀崎神社の神主か。