周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

久都内文書2(完)

   二 安藝國安北郡深川打渡坪付

 

         (割書)

  藝州安北郡深川「打渡坪付」事

    合 龜崎八幡領

 三反田                  物申

  田貳反九畝廿歩 米五石貳斗壹升     左近大夫

 御供田

  田壹段五畝   米貳石六斗四升     同 人

 かめ崎

  屋敷五畝    代五百文        同 人

 同所家のまへ

  畠貳畝     代八拾八文       同 人

 同所たくせん免              はゝの

  畠二畝十歩   代百九十八文      弥太郎

 ミやこや         (黒印、以下同ジ)神主内者

  畠二畝     代三拾三文  ■    四郎五郎

 馬場道ノ上                物申

  田七畝廿歩   米壹石三斗五升     左近大夫

 神田

  田壹反六畝十歩 米貳石六斗九升     同 人

 岩田

  田九畝     米壹石三斗八升     同 人

 たきた                 國貞ノ

  田壹段三畝   米壹石四斗三升     新五郎

    以上田數九段貳拾歩 ■

      米拾四石七斗

      畠數六畝拾歩

      代三百貳拾八文目銭共

    屋敷壹ヶ所 五畝

     代五百五拾五文

  并而拾五石五斗四升三合 ■

    同郡尾和八幡領    ■

 おわ                   岡ノ

  畠六畝     代百九拾八文      又左衛門

                     おわの

  田壹反一畝   米壹石七斗貳升     惣右衛門

    以上田數壹段壹畝  ■

      米壹石七斗貳升

      畠數六畝

      代貳百四文目銭共

  并而壹石九斗貳升四合 ■

    同郡福田八幡領

 牛王田                  馬場ノ

  田壹反二畝   米壹石七斗貳升     弥太郎

 馬場道ノ下                物申

  田二畝     米二斗六升       左近大夫

 堂迫                  たなもり

  田五畝     米二斗七升       四郎五郎

 しゝまい神田八月十五日おりい免        馬場ノ

  田六畝     米壹石六升       弥太郎

    以上田貳段五畝 ■

      米三石六斗壹升 ■

    同郡隠地八幡領

                     すくも塚ノ

  田九畝     米九斗九升       三郎左衛門

    同郡新宮神田

 まん所田                馬場ノ

  田九畝拾歩   米壹石四斗九升     新五郎

 宮前                  神主

  田貳反五畝   米貳石九斗三升     平左衛門

 同所

  畠二畝     代三拾三文       同 人

 新宮ノわき

  田四畝     米四斗         同 人

 物申屋敷宮わき畠加之

  屋敷三畝    代貳百文        同 人

 新宮神田道捽               物申

  田三反廿歩   米四石         左近大夫

 御供免                  物申

  田壹反壹畝   米壹石六升       平左衛門

 新宮神田

  田廿歩     米五升 ■       同 人

    以上田數八段二畝

      米九石九斗三升 ■

      畠數貳畝

      代三拾三文目銭共

    屋敷壹ヶ所  三畝

      代貳百拾六文目銭共

  并而拾石壹斗八升 ■

  惣以上三拾貳石二斗四舛七合代方共

   (1599)          佐竹 (元眞) 

   慶長四年九月六日   ■   三郎右衛門(花押)

                 三輪 (元徳

                  加 賀 守

                 藏田 (就貞)

                  東 市 介

                 兼重 (元續)

                  五郎兵衛尉

       祝師

        左近大夫殿

       新宮祝師

        平左衛門尉殿

 

*書き下し文・解釈は省略しました。

 

 「注釈」

亀崎八幡」

 ─亀崎八幡神社安佐北区高陽町中深川。三篠(みささ)川の南岸堂ヶ迫(どうがさこ)に鎮座する。八幡三神を祭神とした旧村社。永正二年(一五〇五)十二月十三日付の毛利弘元下知状(久都内文書)によれば、久都内民部大夫が深河(ふかわ)上分大小社頭奉幣ならびに注連役を、先例に任せ勤仕することを認められており、さらにこの文書には天文一〇年(一五四一)の元就の証判もある。久都内氏は亀崎八幡宮の祠官で、弘元の時代にはすでに二十七代を経ていたと伝える(芸藩通史)。

 毛利氏支配下にあった慶長四年(一五九九)の安北郡深川打渡坪付(久都内文書)には、亀崎八幡宮とその注連下(配下)にあった各社の社領が書き上げられ、それによると亀崎八幡宮領十五石五斗四升三合・尾和(おわ)八幡(現高陽町下深川)領一石九斗二升四合・福田八幡(現東区安芸町福田)領三石六斗一升・隠地(おんじ)八幡(現高陽町中深川)領九斗九升・新宮神田(同)十石一斗八升、総計三十二石二斗四升七合であった。またこの坪付には「たくせん免」「馬場」「しゝまい神田」など、当社の神事や芸能の内容をうかがわせる字名が記されている(『広島県の地名』)。

 

  亀崎八幡領

「目銭」

 ─「めせん」。「もくせん」「めぜに」とも読む。①一〇〇文未満の銭を束ねて一〇〇文として通用させる慣行(省陌法)において、省かれる銭。「五百文めせん十五文」といえば一〇〇文について三文の目銭となる(『古文書古記録語辞典』)。代銭の名目上の合計は「三二八文」で、畠の各項目を合計した実際の額は「三一九文」です。したがって、差し引き「九文」、つまり一〇〇文につき三文が目銭となります。

 

「并而拾五石五斗四升三合」

 ─「并」は「併」のことで「あわせて」と読むものと考えられます。また、米の合計は「十四石七斗」ですから、差し引き「八斗四升三合」と代銭の合計「八八三文」が等価となります。したがって、この時の和市(米と銭の交換比率)は、およそ一石=一貫文となります。

 

  尾和八幡領

「代貳百四文」─畠六畝の代銭は一九八文ですので、目銭は六文になります。

 

「并而壹石九斗貳升四合」

 ─米の合計は一石七斗二升なので、差し引き二斗四合が代銭二〇四文と等価になります。

 

  福田八幡領

「牛王田」─牛玉宝印作成費用を捻出する田か。

 

「おりい免」─未詳。八月十五日放生会で演じられる獅子舞の費用を捻出する田か。

 

「祝師」

 ─「はふりし」。「祝(はふり)」のこと。神社に属して神に仕える職。また、その人。しばしば神主・禰宜と混同され、三者の総称としても用いられるが、区別する場合は、神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執行に当たる職をさすことが多い。その場合、神主よりは下位であるが、禰宜との上下関係は一定しない(『日本国語大辞典』)。