周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

己斐文書1

解題

 南北朝時代十三通、戦国時代二通からなる。前者は厳島社領であった高田郡三田新庄下村の在地の状況を示す文書で、譲状三通、寄進状七通を含んでいる。後者は毛利氏からの宛行状と仮名書出である。

 本文書は三田村(広島市白木町)の正覚寺に伝来した文書とこれを現在所蔵する己斐氏自身の文書からなる。己斐氏は戦国時代には己斐の茶臼山城に拠った豪族である。正覚寺は現在小堂を残すのみであるが、堂内には永和・至徳書写の大般若経が蔵されている。

  

   一 道専譲状

 ゆつりわたすにうたうさこのハやしはたけこたの事

(しヵ)(慈雲)(房)たうせん殿      (今生後生)

 ⬜︎うんの御ハうに心さしふかくて、こんしやうこしやう、たうせんにありかたくあた

 られ候ニよて、一こふんゆつりたてまつる也、一このゝちわくら人のこまこのなかに

                             (違乱)

 心さしふかくあたられたふへきなり、いちふんたりといふともいらんせんものわ

 (罪科)

 さいくたるへし、のちのためにしやうくたんのことし、

    (暦応)  (元年)

    りやくをうくわんねん八月三日

                      たうせん(花押)

 

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

 譲り渡す入道迫の林・畠・古田の事

 慈雲の御房に志深くして、今生後生、道専にありがたく当たられ候ふによて、一期分

 譲り奉るなり、一期の後は蔵人の子孫の中に志深く当たられ給ふべきなり、一分たり

 と雖も違乱せん者は罪科たるべし、後のために状件のごとし、

     (1338)

     暦応元年八月三日

                   たうせん(花押)

 

 「解釈」

 譲り渡す入道迫の林・畠・古田のこと。

 私道専は慈雲御房への情愛が深く、慈雲は今生も後生も、私に尊く接してくだいますことによって、私は一期分として慈雲に譲り申し上げるのである。一期の後は、蔵人の子孫のなかで情愛深く接するものに、右の所領をお与えになるべきである。ほんの少しでも違乱するようなものは、罪科に処すべきである。後日のため、譲状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「入道迫」─未詳。三田新庄の地名か。

 

「三田新庄」

 ─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島社領高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に分解を遂げた際、厳島社領として定着をみたもので、承安三年(1173)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(1193)十二月の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年(1397)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島文書」)。永仁六年(1298)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在していたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭親貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島社一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)。

 

「蔵人」

 ─蔵人二郎。二号文書によると、道専(故入道殿)と慈雲・蔵人は叔母(伯母)と甥の関係にあったと考えられます。

 

「たうせん(道専)」─二号文書の故入道殿か。

 

*これは、叔母(伯母)である道専が、正覚寺の僧侶で甥である慈雲に、一期分として入道迫の地を譲った文書です。慈雲が亡くなった後は、同じ甥である蔵人二郎の子孫に譲ることも指示していますが、二号文書によると、慈雲は援助を受けていることを理由に、生前にこの地を蔵人二郎本人に譲ってしまいます。