周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

己斐文書3

   三 掃部頭親貞譲状

 

                      (奉請)

 ゆつりわたすあきのくに三田しんしやうのうちほうせい田はたけはやし、ふさいちよ

 まつによにゆつりわたすものなり、いちこののちハ親貞かほたいそとして、しそんの

 あとをとふらうへし、

        (境)

 右このところのさかへの事、かミハきりのきたにをつゑのをのほりミなをへかきる、

 にしハたき山をくたりにあらたにをかわふちの大もりをさかへ、ミなミハ大かわをか

      (奉請)    (門田)    (公方) (公事)

 きるなり、ほうせいハ三田もんてんなれは、くはうのくうしあるへからす、よてこ日

 さたのためにゆつり状くたんの事、

      (1364)

     正へい十九年八月十三日

                   かもんのかミ親貞(花押)

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

 譲り渡す安芸国三田新庄の内奉請田・畠・林、婦妻千代松女に譲り渡す者なり、一期

 の後は親貞が菩提所として、子孫の後を弔ふべし、

 右この所の境の事、上はきりのきたにをつえのを登りみなをへ限る、西はたき山を下

 りにあら谷を川淵の大森を境、南は大川を限るなり、奉請田は三田門田なれば、公方

 の公事あるべからず、仍つて後日の沙汰のために譲状件のごとし、

     (1364)

     正平十九年八月十三日

                   掃部頭親貞(花押)

 

 「解釈」

 譲り渡す安芸国三田新庄のうち、奉請田・畠・林を妻の千代松女に譲り渡すものである。一期譲与の後は、私親貞の菩提所として、子孫が後世を弔うべきだ。

 右のこの場所の境のこと。上はきりのきたにをつえのを登り、みなをへ限る。西はたき山を下りにあら谷を川淵の大森を境とする。南は大川を限るのである。奉請田は三田新庄の門田なので、公方の公事はあるはずもない。そこで、後日の訴訟のため、譲状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領。高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三

       田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に

       分解を遂げた際、厳島社領として定着を見たもので、承安三年(一一七

       三)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える

       祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(一一九九)十二月

       の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・

       六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年

       (一三九七)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島

       書」)。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親

       教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、

       それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在し

       ていたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領

       主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭

       貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との

       深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比

       較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島

       一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

「奉請田」─「奉請」は「お願い申し上げること」の意(『日本国語大辞典』)。どう

      いう謂れの土地か、よくわかりません。

「門田」─中世武士・土豪の屋敷地の門前などに接続している耕地。畑の場合は門畠。

     屋敷地から遠く離れた沖の田や山田と対比される良田。屋敷をめぐる濠の水

     を用い、水利の条件もよく、多くは下人・所従に耕作させるか、周辺の農民

     に小作させた。領主・国衙の検注の対象とならず年貢・公事がかからないの

     がふつうである(『古文書古記録語辞典』)。

「公方」─三田新庄は厳島社領なので、公方は厳島神主と考えておきます。

「正平」─南朝年号なので、掃部頭親貞は南朝方に組みしていたと考えられます。

 

*二段落目の境についての記載は、ほとんど訳せませんでした。