一一 光珍寄進置文
御しんりやうの内三田しんしやう下村のうち、つちハしゆやたにゝさきたち候て、
(正覚)
た二たんきしん申候き、かさねて彼所のうちの田二たん、しやうかく寺へきしんた
てまつり候なり、もし寺りやうの田はたけはやしいけにいたるまてわつらいを申さ
(罪科) (輩)
るる物す候はゝ、さいくわのともからとあるへきなり、
(相続) (違乱) (不孝)
一愚身かあとをさうそくのもの、彼寺りやうニいらんを申事あらは、ふけうの物とあ
(條々) (惣領) (厳島)
るへきなり、このてうゝゝをそむきたらんもの事をは、そうりやういつくしま方へ
仰あるへく候なり、よて後日ために状くだんのごとし、
(1384)
至徳元年十月廿六日(割書)「きのえねのとし」 光珎(花押)
「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)
御神領の内三田新庄下村のうち、土橋湯屋谷に先立ち候ひて、田二反寄進申し候ひき、重ねて彼の所の内の田二反、正覚寺へ寄進奉り候ふなり、もし寺領の田畠林池に至るまて煩ひを申さるる物候はば、罪科の輩と有るべきなり、
一つ、愚身か跡を相続の者、彼の寺領に違乱を申す事有らば、不孝の物と有るべきなり、此の條々を背きたらん者事をば、惣領厳島方へ仰せ有るべく候ふなり、仍て後日のために状件のごとし、
「解釈」
厳島御神領三田新庄下村のうち、土橋湯屋谷に先立ちまして、田二反を寄進申しました。さらに、この場所の田二反を正覚寺へ寄進し申し上げるのであります。もし寺領の田畠林池に至るまで、寄進に対して異論を唱えるものがおりますなら、罪科に処されるべきである。
一つ、私光珍の跡を相続するものが、この寺領に対して異論を申すことがあれば、不孝のものと見なすべきである。この条文に背くようなものを、惣領は厳島神主方へ訴えなさるはずであります。よって後日のため、置文の内容は以上のとおりです。
「注釈」
「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島
社領。高田郡司藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三
田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に
分解を遂げた際、厳島社領として定着を見たもので、承安三年(一一七
三)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える
祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(一一九九)十二月
の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・
六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年
書」)。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親
教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、
それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在し
ていたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領
主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭親
貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との
深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比
較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島社
一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘
園』)。