解題
戸河内の発坂城主栗栖喜太郎が禅門に入り、帰源と称し、造立したのが当寺である。
一号文書は義弘花押が周知のものと異なっており、与一野年貢帳その他と同一人の筆である点今後の研究をまちたい。四号文書の与一野は戸河内村内の地名に見られる。
この寺は江戸時代、真宗への改宗が進むなかで禅宗を守り通したが、今では無住となり、檀徒が堂宇・文書を管理している。
発坂城跡の西方に開けた土居のほぼ中央にある。臨済宗妙心寺派。無為山と号し、本尊は釈迦如来。鎌倉時代末より、この地方を支配してきた土豪栗栖氏一族の喜太郎が出家して帰源と号し、当寺を創設したと伝える(永和元年九月一〇日付「雪舟寄進状」当寺文書)。
貞治五年(一三六六)の実際寺領与一野年貢帳写が伝来し、当寺は少なくとも南北朝中期には存在した。応永元年(一三九四)の大内義弘安堵状があり、同三五年八月一九日付の祖綱外余命連署寄進状(当寺文書)は「安芸国山県郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷事」として、東は「従開山塔佛殿之小庭ヲ限」、南は「横路ヲ至西之谷限」、西は「従谷尾筋ヲ登大峰尾ヲ至瀧首限」、北は「従瀧首平ヲ下至開山塔限」と記す。その後、毛利元就は寺領与一野を没収し、代わりに土居原のうち四〇石を寄進したという(芸藩通志)。
一 大内義弘安堵状
(包紙)
「大内殿御判物壹通、雪舟判物壹通并地割判形書物」 ○本文書以下三通ヲ包ム
(山縣郡)
安藝国太田郷實際寺領事、任二皈源寄附状之旨一、停二止萬雑公事一、寺家領掌
不レ可レ有二相違一之状如レ件、
(1394)
應永元年十二月十七日
○本文書、研究ノ余地アリ
「書き下し文」
安藝国太田郷實際寺領の事、皈源寄附状の旨に任せ、萬雑公事を停止し、寺家領掌相
違有るべからざるの状件のごとし、
「解釈」
安芸国山県郡太田郷実際寺領のこと。帰源の寄進状の内容のとおりに、様々な公事を停止し、寺家が領有することに間違いあるはずはない。
*偽文書の可能性があるようです。