周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

涙、なみだの、官僚暮らし

  宝徳三年(一四五一)十月二十五日 (『康富記』3─295・301頁)

 

 廿五日庚寅 晴陰、入夜雨下、向飯彦許、予窮困過法、小屋及大破、既欲令顚倒之間

 愁訴注一通、付弾正可令披露万里小路中納言殿之由答、

  (中略)

 權大外記康富謹言、

  欲優曩祖勤労助一流断絶被下御訪暫致堪忍間事、

 右高祖康綱経歴外記内記官史三局之朝要、奉仕徳治延慶以来五代之明時、権大外記

 者、貞観以降中絶也、而被再興之、被拜任之、隼人正者就有司領、爲羽翼被許相傳、

 于今為規模数代令相続之、又為記録所寄人被召加決断所衆、於日州兼任者被付吏務、

 殊更等持院殿御代、御出仕方御作法御揖等事、自中園相国被商量申之時節、為彼御使

 参入之、康綱具申上、随分致奉公、此子細鹿苑院殿御代自二條殿被申之、如節会御習

 禮時、毎度祗候之、被下恩録於康隆矣、惣代々相続致拜趨忠節之條、諸家所被知食

 也、康富不省不肖、十一歳之春拜任以来、自青衫之始至朱紱之今、外記之労既四十餘

 年也、愚息康顕者、外記之上被推任内記、康純者外記之上被兼帯官吏、各不量涯分、

 父子三人相並顕職、云恒例、云臨時、陣中之出仕、遠所之参向、頗超傍輩、報国之志

 何事如之、頃来舊領司領等過半令相違、綸旨院宣御判御教書等証文雖所持之、待時宜

 未企愁訴之間、窮困無比類、首陽之採蕨漸術盡、溝壑之餓莩亦不遠、爰居住敷地者、

 因 竹園細々参仕、自 仙洞被下之、蝸屋之営如形、而衡門之構未終之処、依度々大

 風、既欲令顚倒、吁嗟累祖相傳之記録、四壁荒而難避風雨、老臣衰邁之生命、一瓢空

 而不期旦暮、望請鴻慈被垂天憐、被申入於室町殿、被助置一流之断絶、被充下三千疋

 御訪、相継餘命、修治破屋、暫慰陸沈之愁、欲抽勤厚之忠、此趣預洩御奏聞被成進御

 奉書者、世以稱官仕之不空、人以知奉公之有勇、不堪懇款之至、謹言上如件、

   宝徳三年十月 日、

 

 「書き下し文」

 廿五日庚寅、晴れ陰る、夜に入り雨下る、飯彦の許へ向かふ、予の窮困過法、小屋大

 破に及ぶ、既に顚倒せしめんと欲するの間、愁訴し一通を注す、弾正に付し万里小路

 中納言殿に披露せしむるの由答ふ、

  (中略)

 権大外記康富謹言、

  曩祖勤労に優るる一流の断絶を助け御訪を下されば暫く堪忍致さんと欲する間の

  事、

 右高祖康綱外記・内記・官史三局の朝要を経歴し、徳治・延慶以来五代の明時に奉仕

 す、権大外記は貞観以降中絶なり、而れども之を再興せられ、之を拜任せられる、隼

 人正は司領有るに就き、羽翼として相伝を許され、今に規模として数代之を相続せし

 む、又記録所寄人として決断所衆に召し加へられ、日州兼任に於いては吏務を付けら

 る、殊更等持院殿の御代、御出仕方・御作法・御揖等の事、中園相国より商量し申さ

 るるの時節、彼の御使ひとして之に参入す、康綱具に申し上げ、随分奉公致す、此の

 子細鹿苑院殿の御代に二條殿より之を申さる、節会御習礼の時のごとく、毎度之に祗

 候し、恩禄を康隆に下さる、惣じて代々相続し拜趨の忠節を致すの條、諸家知ろし食

 さるる所なり、康富不肖を省みず、十一歳の春の拜任以来、青衫の始めより朱紱の今

 に至り、外記の労既に四十餘年なり、愚息康顕は、外記の上内記に推任せらる、康純

 は外記の上官吏を兼帯せらる、各々涯分を量らず、父子三人顕職に相並び、恒例と云

 ひ、臨時と云ひ、陣中の出仕、遠所の参向、頗る傍輩を超ゆ、報国の志何事か之に如

 かんや、頃来旧領・司領等の過半は相違せしめ、綸旨・院宣・御判御教書等の証文之

 を所持すと雖も、時宜を待ち未だ愁訴を企てざるの間、窮困比類無し、首陽の採蕨漸

 く術盡き、溝壑の餓莩亦遠からず、爰に居住の敷地は、竹園に細々参仕するに因り、

 仙洞より之を下さる、蝸屋の営形のごとし、而して衡門の構へ未だ終わらざるの処、

 度々の大風に依り、既に顚倒せしめんと欲す、吁嗟累祖相伝の記録、四壁荒れて風雨

 を避け難し、老臣衰邁の生命、一瓢空しくして旦暮を期せず、鴻慈天憐を垂れらるる

 を望み請ひ、室町殿に申し入れられ、一流の断絶を助け置かれ、三千疋の御訪を充て

 下されよ、余命を相継ぎ、破屋を修治し、暫く陸沈の愁ひを慰め、勤厚の忠を抽きん

 ぜんと欲す、此の趣御奏聞に預かり洩れ御奉書を成し進らせらるれば、世に以つて官

 仕の空しからざるを称し、人を以つて奉公の勇み有るを知り、懇款の至りに堪へず、

 謹んで言上件のごとし、

 

 「解釈」

 二十五日庚寅、晴れのち曇り。夜になって雨が降った。飯尾彦のもとに向かった。私の困窮は度を過ぎ、我が家は大破した。もう少しで倒れようとしているので、嘆き訴える書状を記した。弾正に託して万里小路中納言冬房殿に披露する、と飯尾彦は答えた。

  (中略)

 権大外記康富が謹んで申し上げます。

  先祖が勤労に優れていた我ら一流の断絶を助け、お見舞い金をくださるなら、しばらく耐え忍ぼうと思いますこと。

  右、先祖康綱は外記局・内記・弁官局の三局という朝廷の要職を歴任し、徳治・延慶以来五代にわたる太平の世に奉仕してきた。権大外記は貞観以降中絶していた。しかし、これが再興され、廉綱が拜任された。隼人正には隼人司領が所属しているので、帝の補佐役として相伝を許され、今に名誉として数代隼人正を相続してきた。また記録荘園券契所の寄人として、雑訴決断所の職員にも召し加えられ、日向国を兼任し職務を託された。とくに足利尊氏様の御代に、尊氏様のご出仕の仕方・ご作法・ご挨拶の作法等のことを、洞院公賢からよく考え申し上げるように命じられたとき、公賢の御使いとして尊氏様のもとに参上した。康綱は詳細に申し上げ、随分と奉公した。この事情を足利義満様の御代に、二条持基様から義満様に申し上げなさった。節会の練習のときのように、毎度の義満様にお仕えし、恩禄を康隆に下さいました。すべてを代々相続し、参勤の忠節を致してきたことは、諸家の方々がご存知である。私康富は愚かであることを顧みず、十一歳の春の拜任以来、身分の低いときから五位に叙された今に至り、外記を務めてすでに四十数年である。息子の康顕は、外記に加えて内記にも推挙され任じられた。康純は外記のうえに弁官を兼帯した。それぞれ身の程をわきまえず、父子三人ともに要職に就き、恒例行事も臨時行事も、陣の座への出仕や、遠隔地への参向も、同輩をすっかり超えている。国のために尽くす気持ちは、何事かこれに匹敵しようか、いやしない。近頃旧領や司領の過半は押領され、綸旨・院宣・将軍家御判御教書等の証文を所持しているけれども、将軍様のご意向を待ち望み、いまだに嘆き訴えていないので、このうえなく困窮している。首陽山の蕨を採りながら(困窮に耐えていたが)次第に生きる術も尽き、困難な状況で飢え死にするのもまた遠くはない。いま居住している敷地は、皇族に細やかに参仕してきたことにより、上皇からこれを下された。小さな家の生活は形ばかりで(貧しく)、粗末な住居の造営はまだ終わっていなかったが、度々の大風のせいで、今にも転倒しようとしている。ああ、先祖代々の相伝の記録は、粗末な家が荒れ果てたことで、風雨を避けることができない。私の命は老い衰え、わずかな酒も空となって、明日の命も期待できない。大きな慈悲と帝の憐れみを下されることを望み願う。このことを室町殿足利義政に申し入れなさって、我が一流の断絶を助け、三千疋の見舞金を支給してください。余命をつなぎ、壊れた家を修繕し、しばらくの間滅びる不安を慰め、忠勤に励みたいと思う。この内容を帝のお耳に入れ、御奉書を発給してくだされば、真心に対し感謝の気持ちを表さずにはいられない。以上、謹んで言上致します。

 

 「注釈」

「飯彦」─未詳。室町幕府奉行人飯尾肥前彦三郎為数か。

「弾正」─未詳。弾正尹坊城俊秀か。

万里小路中納言殿」─万里小路冬房。

「康綱」─中原康綱。記主中原康富の高祖父。文保元年(一三一七)三月二十七日少外

     記任、建武元年(一三三四)十二月十七日権大外記任、暦応二年(一三三

     九)六月十日卒(松園斉「中世の外記について」(『人間文化』九、一九九

     四・九、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180204145648.pdf?id=ART0001217506)。

「外記」─太政官少納言の下にあり、大外記・少外記(各二人)・史生(二〇人)よ

     り成る。内記が作る詔勅の草案を訂正し奏文を作る。また恒例・臨時の儀式

     行事を奉行する。平安末期から大外記の官は中原・清原家の独占するところ

     となり、局務と称した(『古文書古記録語辞典』。

「内記」─律令官制で、中務省の書記官で。詔勅の起草、位記の作成を掌る。令制では

     大内記・中内記・少内記各二名を置いたが、のち、中内記は大同元年(八〇

     六)に廃止された。内記の詰所は内記所で、内記局ともいい、左兵衛陣(陽

     明門内南掖)の南にあった(『古文書古記録語辞典』)。

「官史」─弁官局の史の意。太政官の弁官局の左右大史・小史のこと(『日本国語大辞

     典』)。「弁官」は、律令国家機構の中心的事務機関。太政官内の部局。左

     右の弁官局は少納言局とともに行政事務の遂行に当たった。それぞれ、大・

     中・少弁の下に大・少史をおく。左弁官は中務・式部・民部省を、右弁官は

     兵部・刑部・大蔵・宮内省を担当して、「因事管隷」(職掌に基づいて他官

     司を統括すること)の権限をもち、事務連絡を担当した。太政官符は弁官が

     作成。のち手続きが煩瑣な官符にかわりに、官宣旨を弁官が下すようにな

     る。平安中期から左大史が実質事務を担当し、両局を合併して官務と呼ばれ

     るようになる。これを小槻氏が、戦国期以降は壬生家が世襲した(『新版 

     角川日本史辞典』)。

「隼人司」─隼人司は、律令中央官司の一つで、衛門府のちに兵部省に属し、隼人を管

      掌下においていた。この官司には、正(かみ)・佑(じょう)・令史(さ

      かん)の三官各一人がおり、その下に使部十人、直丁一人、隼人がいた。

      正は隼人および名帳の検校、歌舞の教習、竹笠の造作のことを掌った。管

      掌下の隼人は、もと大隅薩摩国からの更新者もいたが、やがて機内およ

      び近江・丹波紀伊国の居住者に限られ、大衣(おおきぬ)・番上隼人・

      今来(いまき)隼人などは大嘗祭などの儀式への参加、行幸時の従駕に奉

      仕し、また作手隼人は油衣・竹笠の政策に従事していた。この司が右衛門

      府のちに兵部省に属していたのは、大化前代に隼人が天皇や皇子の守護と

      いった軍事関係の任ついていた伝統による(『国史大辞典』)。

「記録所」─後三条天皇が諸国の荘園の公験を直接中央政府で審査するために設置した

      機関で、記録所ともいう(『国史大辞典』)。

「決断所」─雑訴決断所建武政権の訴訟機関。鎌倉時代王朝の所務訴訟は記録所・文

      殿によって所轄されたが、幕府が倒れ、建武政権が成立すると記録所は公

      武の訴訟を一手に処理することができず、ここに雑訴決断所が新設され

      た。雑訴とは主として所領関係の訴訟をいい、その処理は政局担当者の重

      要な責務であった(『国史大辞典』)。

等持院殿」─足利尊氏

「中園相国」─洞院公賢か。

鹿苑院殿」─足利義満

「二絛殿」─二条持基か。

「康隆」─中原康綱の子。記主中原康富の曽祖父。文和三年(一三五四)少外記任。応

     安六年(一三七三)四月二十三日権大外記任(松園斉「中世の外記につい

     て」(『人間文化』九、一九九四・九、

     https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180204145648.pdf?id=ART0001217506

 

*かなり大げさな表現であるように思いますが、それゆえに必死さは伝わってきます。武士の押領や百姓の年貢減免闘争などにより、当時の貴族や役人はかなり貧乏になっていたそうですが、まるで餓死するかのような勢いで窮状を訴えています。この史料がどこまで事実を表しているのかはわかりませんが、なんだか、読んでいるだけで気の毒になってきます。

 

 

*2018.12.12追記

 最近、次の論文を読んで、この中原康富の貧困陳情が嘘っぽくみえてきました。

 

 「室町朝廷では、禁裏と室町殿によって近臣や家礼・家僕として登用された廷臣の公家官人だけが政治的経済的にも生き延びることができた。勅問の輩や八卿八省諸司寮の統廃合が進展し、特権貴族の五摂家清華家の中から没落・廃絶者が多く出た。一条房家の土佐下向、尚基以後の二条家没落や清華家の洞院公数の出家・大臣家中院家一門三条坊門道守の切腹など、価格の高い特権貴族ほど「困窮」を口実に没落を余儀なくされた(第二章)。それに対して、名家・羽林家や半家など、中級・下級貴族は天皇の官吏であるとともに、幕府・摂家の家産官僚制の官吏でもあり、国家官僚制と家産官僚制に両属した二重の官吏として、室町戦国期に活躍し家格の上昇を果たした。天皇と室町殿の公武の廷臣になることで、家格の桎梏を部分的に打破することに成功した。

 禁裏と室町殿両者に奉仕する廷臣層となった中級・下級貴族の諸家は、天皇家の官吏として禁裏御料や官職渡領の知行地を給付されて、中央官僚としての経済基盤を確保した(第一章)。また摂家の家司・家礼として奉仕することによって、殿下渡領の知行地や屋敷地を給恩として安堵された。さらに室町殿の家司・家礼や諸大夫としての出仕を通じて、将軍家御料所の知行地の給付や御訪料などの給付を受けた。天皇は、彼らを「武家下知に任せ」、本所権力として譜代家領を一括安堵する綸旨を発給した。公武の廷臣層は経済的基盤を保障され、本所の家政権力として成長することができた(第一章・第二章)。室町朝廷の公家官制の特質は、百瀬今朝雄が平安・鎌倉・室町期の公家社会の身分秩序について指摘した、官職の身分体系と家の諸大夫・家礼の家格体系の二重構成をなしていたとする見解(『公安書札礼の研究』東京大学出版会、2000)と合致するものである(井原今朝男「結語」『室町廷臣社会論』塙書房、2014、565頁)。

 

 大風で家が大破したのは本当のことなのでしょうが、実はそれを自分の資産だけで建て直すことができたのではないかと思えてしまいます。禁裏や幕府から、少しでもお見舞金を引き出すために、有らん限りの言葉を尽くして、この申状を書いたのではないでしょうか。