周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

死人を食べること

  建久九年(一一九八)四月七日条「嘉禎二年中臣祐定記」

                  (『増補續史料大成 春日社記録』1─96)

 

 一正預遠忠者、自腹腰力ツキ立、アヤマチテ也、仍不参、但七日辰時事也、仍山城國

  (薦ヵ)

  房池之所クスシ召間、兒干御薬令食還了、以外事也、

 

 

  同年四月二十八日条 (『増補續史料大成 春日社記録』1─97)

 

 一遠忠死人食事訴申状

           (行、中臣ヲ誤寫セルモノナラン)

  春日若宮神主従五位下行祐明謹解 申請 長者殿下政所裁事

                             (任)

   請被特蒙 恩裁、正預遠忠依死人食喰罪過、永停廢其職、但祖父祐房吉例、祐明

    令兼帯正預職子細愁状

                      (神)

  右謹檢案内、社司習令禁斷汚穢不浄、備御供⬜︎役、爰正預遠忠、去四月上旬之比、

        (マ丶)

  不慮蒙疵、忽悪澁之刻、迎寄疵醫師山城國住人、令加療治之間、件醫師以兒干令服於

  遠忠了、夫兒干者、是死人也、而爲社司身令食死人、上代未聞之所行、至言語道斷

  次第也、置命死人、可仕神役哉、神慮之恐、旦可令垂御𨗈迹、就中遠忠正乍食死

  人、御供米并菜・菓子、自家中令運上社頭、何況ぞ雑士所從等悉社参、方々令汚穢

  社頭、神慮恐申而有餘、無此御沙汰者、不浄不信御祟天下定出来歟、況背舊記所

  見也、者早依重疊罪科、永解却彼神職、兼又遠忠自所勤大祓之由被仰下者、神冥合

  咲何事如之哉、若然者祐明欲兼帯正預職、凡親父故祐重者、我 君自御廻入御時、

      (功)      于歟        (沈)

  致御祈忠切、雖然被超越者若遠忠不遂其宿望、鎭流悲涙空逝去了、者亡父御慈

              (衍ヵ)

         藤原忠通         (房)

  何無之哉、彼 法性寺殿下御時、祐通者雖爲祐⬜︎死去、依亡父御祈忠功、令補正預

          (コノ挿記ハ、御慈ニツヅク)

          令拜任正預只當祐明之仁、何況社家故實神事礼義全

  了、以昔思今、尤依御慈o無月並之輩、以方々道理案之、祐明兼帯正預、難謂非據

               (肩ヵ)

  哉、望請 恩裁、早永停廢遠忠之正預職、任祖父祐房吉例、祐明兼帯其職者、将仰

  善政之貴、殊奉祈千秋 御摂録矣、以解、

      建久九年五月 日  春日若宮神主従五位下中臣連祐明

 

 

 「書き下し文」(説明注を踏まえて書き下してみました)

 一つ、正預遠忠は、自らの腹に腰刀を突き立つ、過ちてなり、仍って山城国薦池の所

  の医師を召す間、兒干の御薬を食還せしめ了んぬ、以ての外の事なり、

 

 一つ、遠忠死人食の事訴え申す状、

  春日若宮神主従五位下中臣祐明謹んで解し申し請ふ長者殿下政所裁の事、

   特だ恩裁を蒙り、正預遠忠死人食喰の罪過に依り、永く其の職を停廃し、祖父祐

    房の吉例に任せ、祐明正預職を兼帯せしめらるるを請ふ子細愁状、

  右謹んで案内を検ずるに、社司の習ひ、汚穢不浄を検断せしめ、御供神役を備ふ、

  爰に正預遠忠、去んぬる四月上旬の比、不慮に疵を蒙り、忽ち悪渋に及ぶの刻、疵

  の医師〈山城国住人〉を迎え寄せ、療治を加へしむるの間、件の医師兒干を以て遠

  忠に服せしめ了んぬ、夫れ兒干は、是れ死人なり、而れども社司の身として死人を

  食せしむること、上代未聞の所行、言語道断に至る次第なり、命を死人に置き、神

  役を仕るべけんや。神慮の恐れ、且つ御𨗈迹を垂らしむべし、就中遠忠正死人を食

  しながら、御供米并菜・菓子、家中より社頭に運上せしむ、何ぞ況んや雑士・所従

  等悉く社参し、方々社頭を汚穢せしむるをや、神慮恐れ申して余り有り、此の御沙

  汰無くんば、不浄不信の御祟、天下に定めて出来するか。況んや旧記の所見に背く

  をや、てへれば早く重畳の罪科に依り、永く彼の神職を解却し、兼ねて又遠忠自ら

  大祓を勤むる所の由仰せ下さるれば、神冥合わせ咲くこと何事か之に如かんや、若

  然らば祐明正預職を兼帯せんと欲す、凡そ親父故祐重は、我が君御廻入の御時よ

  り、御祈りの忠功を致す、然りと雖も遠忠に超越せられ、其の宿望を遂げず、沈み

  て悲涙を流し空しく逝去し了んぬ、てへれば亡父御慈しみ何ぞ之無からんや、彼の

  法性寺殿下の御時、祐通は祐房死去たりと雖も、亡父御祈りの忠功に依り、正預に

  補せしめ了んぬ、昔を以て今を思ひ、尤も御慈しみに依り正預を只当祐明の仁に拜

  任せしめ、何ぞ況んや社家故実・神事礼義全く肩並の輩無く、方々の道理を以て之

  を案ずるに、祐明正預を兼帯すること、非拠と謂ひ難からんや、恩裁を望み請ひ、

  早く永く遠忠の正預職を停廃し、祖父祐房の吉例に任せ、祐明其の職を兼帯せば、

  将に善政の貴を仰ぎ、殊に千秋を御摂簶に祈り奉る、以て解す、

 

 「解釈」(あまりに直訳が不自然なところは意訳しました。)

 一つ、正預遠忠は、自分の腹に腰刀を突き立てた。誤ってやったのである。そのため不参となった。ただし、それは七日の辰の時のことであった。そこで、山城国薦池の医師を呼び寄せたところ、児干のお薬を食べさせた。けしからんことである。

 

 一つ、春日社正預中臣遠忠が死人を食べたことを訴え申す状。

  春日若宮神主従五位下中臣祐明が、長者殿下近衛基通の政所の裁許を願い申し上げること。

   ただ殿下政所のご裁許を蒙り、正預中臣遠忠が死人を食べた罪科により、永久に正預職を停止し、祖父祐房の吉例に従って、私祐明に正預職を兼帯させるなさることを願う事情を訴える状。

  右の件について謹んで先例を調べてみると、社司の慣習では汚穢・不浄を厳重に禁止させて、御供を供え神役を勤めています。ここに正預遠忠は、去る四月上旬の頃に、思いがけず負傷しました。瞬く間に悪化したときに、傷を治す医師〈山城国の住人〉を迎え寄せて治療させたところ、この医師は児干を遠忠に服用させました。そもそも児干は死人です。だから、社司の身として死人を食べることは、前代未聞の所行であり、とんでもないことです。死人を食べて命を長らえ、神役を勤めることができましょうか、いやできません。神の御心に背く恐怖を、とりあえずご推察ください。とりわけ正預遠忠は死人を食べながら、御供米や野菜、果物を、家中から社殿に運上させました。まして遠忠の雑士や所従らはみな社参し、方々で社殿を穢れされていることは、なおさらとんでもないことです。神の御心に背く恐怖は、申して余りあります。このご裁許がなければ、不浄・不信心の御祟が、天下にきっと起こるでしょう。まして古い記録の慣習に背くことは、なおさらひどい祟りが起こるでしょう。というわけで、早く、重大な罪科により、永久に遠忠の正預職を解任し、また遠忠自身が大祓を勤めることをお命じくだされば、神仏の御心に叶うことは、何事もこのご裁許には及びません(このように裁許してくださることが、最も神仏の御心に叶うはずです)。もしそうであれば、私祐明は正預職を兼帯したいです。そもそも亡くなった親父の祐重は、我が君が御廻入の時からご祈祷の忠節を尽くしてきました。そうではありますのに、遠忠に超越され正預職に就任するという宿願を遂げることができず、悲嘆の涙を流し空しく亡くなってしまいました。というわけで、亡父祐重へのご慈悲はどうしてないのでしょうか。あの法性寺殿下藤原忠通の時、祐房が死去したけれども、亡父のご祈祷の忠節により、祐通は正預職に補任されました。昔の例によって現状を思い、当然ご慈悲により、正預職に私祐明を拝任させてください。社家故実や神事礼儀において、まったく私に並ぶものはなく、様々な道理によってこの件を考えても、私祐明が正預職を兼帯することに、根拠がないと言うことができましょうか。殿下政所のご裁許を望み、早く永久に遠忠の正預職を停止し、祖父祐房の吉例に従って、私祐明が正預職を兼帯すれば、殿下の善政の尊さを敬い、とりわけ長く摂関家のためにご祈祷を致します。以上、上申します。

 

 「注釈」

「薦池」─未詳。

「長者殿下」─関白近衛基通か。

「置命死人」─読み方、解釈ともによくわかりません。「死人を食べて命を長らえる」

       くらいの意味でしょうか。

「雑士」─雑役を勤めるものか。

「大祓」─罪・穢を除き心身を清らかにしてその更生を図るもの。六月・十二月の晦日

     および臨時に行われる。中臣が祓麻、東西の文部は祓刀を奉り祓詞を読む。

     ついで百官男女を朱雀門に集めて中臣が祓詞を宣る。五畿七道には大祓使が

     派遣された(『古文書古記録語辞典』)。今回の場合、穢をばら撒いた罪科

     によって、遠忠自身に臨時の大祓を執行させようとしたものと考えられま

     す。

「合咲」─読み方、解釈ともによくわかりません。「神仏の御心に叶う」くらいの意味

     でしょうか。

「我君」─未詳。天皇か関白を指すのでしょうか。

「廻入」─仏語。自ら得た功徳を他にめぐらし与えること(『日本国語大辞典』)。辞

     書ではこのように説明されていますが、この時の状況がまったくわからない

     ので、解釈できませんでした。

「祐通」─祐房の子。祐明の叔父(久保尾俊郎「中臣祐仲と祐建をめぐって─『尾張国

     郡司百姓等解文』の奥書」『早稲田大学図書館紀要』 三一、一九八九・一

     二、https://core.ac.uk/download/pdf/144468674.pdf)。この史料に現れて

     いる社司については、以下の「解説」を参照。

 

*永島福太郎「解説」(『増補續史料大成 春日社記録』1)より

 春日社は祭神四座四殿、祠官には中臣・大中臣の両氏があった。中臣氏は執行正預(略して正預)を長とし、大中臣氏は神主を長とする。したがって、正預方・神主方と呼称する場合もあり、これをその居住地に因んで、南郷・北郷とも読んだ。正預方の居住地は高畠で、春日社を挟んで三条通りより南方の南郷、神主方は野田で北方の北郷であったからである。ところが若宮社が創建され、長承四年(一一三五)に正預中臣祐房が若宮神主に兼任されたので、祠官の長官は、神主・正預・若宮神主の三となり、これが三惣官と呼ばれた。

 中臣氏には、春日社鎮座(七六八)に時風・秀行兄弟が扈従したので両流があり、時風流はのちに辰市家、秀行流は大東家を称するが、それぞれ数家を派生した。祐房は時風流の出で、その子孫は千鳥家を称する。大中臣氏は、康保二年(九六五)から本社の祠官になったもので、これは中東家を称し、数家を派生した。当初から両流のあった正預方はもとより、神主方も各家に分かれたので、その長官の職は一家相伝ではなく、器用による選補ということであった。ひとり若宮神主の身は、千鳥家の相伝であった。

 かくて本社・若宮の別も生じたが、本社の祠職には、神主方では権神主・新権神主各一名、正預方では権預五名・次預・神宮預・加任預・新預各一名が置かれた。その定員は時に変更がある。若宮神主家はこの正預方の諸職にも任ぜられる。長官を正官というのに対し、これらを権官ともいうが、正官・権官を合わせたものが社司であり、また社家ともいう。この社司の子弟は、成年に達すれば神事に従うが、これが氏人である。

 

 以下、上記「解説」にある人物の説明をまとめておきます。

「祐房」─祐房は春日社祠官中臣氏の出、祠官の長官たる正預となるが、若宮創建に際

     して長承四年三月十三日、その初代神主に兼補された。仁平二年(一一五

     二)十二月二十四日、八十四歳を以て卒したという。

「祐重」─祐重は祐房の三男。保元元年(一一五六)八月十六日、長者宣を得て、祐重

     が若宮二代神主となった。建久三年(一一九二)二月二十四日に卒した。

「祐明」─祐明はもと祐能或いは祐盛と称したという。祐重の嫡男。その譲を以て建久

     三年四月、若宮神主に任ぜられ、嘉禄二年十二月にその職を嫡男祐定に譲る

     まで在職三十四年。位は従四位上に昇った。安貞三年二月二十五日、八十六

     歳の高齢を以て歿。

「祐定」─祐定は祐明の嫡男。もとの名を祐雄、晩年に祐茂と称した。嘉禎二年十二月

     に若宮神主に任ぜられた。建長七年十月従四位上に昇り、康元二年、その職

     を嫡男祐賢に譲るまで在職三十二年。隠居後、文永六年十月十二日に七十二

     歳を以て卒した。

「祐賢」─康元二年二月、父の譲を以て若宮神主となる。弘安五年九月、職を嫡男祐春

     に譲らんことを氏長者に請い、同十月三日、六十二歳を以て卒した。

 

 

*春日社の神職が死人を食べた? 神職であるか否かにかかわらず、中世人が死人を食べていたとは驚きです。ただ、食事として、死人をムシャムシャ食べたというわけではなく、「兒干(児干)」という薬として服用したようです。

 さて、この「兒干(児干)」という薬ですが、『今昔物語集』巻二十九第二十五話にある平貞盛のエピソードで有名なようです。矢傷を治療するためには、妊婦の腹を割いて胎児を取り出し、その肝を使わなければならなかったそうです。ネット検索するとたくさんの記事がヒットするので、あえて書くようなことでもないのですが、あまりにびっくりしたので、史料を紹介したというわけです。

 では、「児干」という薬は、いったいどのようなものだったのでしょうか。ありがたいことに、「児干」については詳細な研究(斎藤研一「子取り」『子どもの中世史』吉川弘文館、二〇一二)があるので、この成果を紹介していきます。ちなみに、この史料の解釈も、この研究を参照しました。

 『今昔物語集』の平貞盛のエピソードを掲載している『新日本古典文学大系』の脚注によると、「児干」は「胎児の肝」であり、「干」は「肝」の省画だそうです。そして、貞盛にしろ、今回紹介した中臣遠忠にしろ、創傷に対する外科的治療として「児干」を用いたことになります。当時の外科的専門医を金瘡医と呼んでいたようですが、彼らの秘伝書のなかに「児干」の記事が出てくるそうです。『金瘡療治鈔』や『金瘡秘伝』という史料から、「児干」という薬は、乾燥させミイラ化した胎児を削りそいで粉末にしたもので、主に切断した筋や骨を継ぐための特効薬であった、と定義づけられています。

 以下は、興味深い内容なので、本文をそのまま引用します。

「重要なのは、それが出産前の他ならぬ胎児であるということだ。つまり、堕胎あるいは流産した胎児ということになり、よって「児干」の入手は、普通には極めて困難な状況と言える。それ故に希少価値を生み、妊婦の腹を割いてまでも胎児を求めようという行為がなされることにもなるのである。(中略)

 最後に、冒頭で紹介した〈史料1〉に戻ってみよう。近々現れて子どもを取って食う鬼の正体とは、「子取り」にほかなるまい。どうやら誘拐された子どもは殺され、その臓器が秘薬として使われているらしい……。〈史料1〉からは、人々を恐怖に震えあがらせた人商人(人身売買)たる「子取り」の暗躍という社会背景を読み取ることができるであろう。

 無残にも内臓をえぐり取られ捨てられている子どもの死体を目の当たりにしたとき、きっと人々は、鬼が現れて子どもを食ったに違いないと思ったのではないか。最近こうした子どもの死体をよく見かけるようになった。鬼がまた現れる……。そうした人々の深層心理こそが、〈史料1〉に記される噂が広く流布し、信じられた理由なのではないだろうか。

 子どもを誘拐すること、ましてや子どもを殺してその「生き肝」を採取することは、殺人であり犯罪であった。しかし、堕胎あるいは流産した胎児を薬用とすることは、決して違法行為でもなければ、タブー視されるものでもなかったと思われる。「児干」は切断した骨や筋を継ぐといった創傷の特効薬であり、いわば肉体の再生に効能があるとされたわけである。そこに、神秘のベールに包まれて母体の中で成長を遂げる胎児に対する、中世の人々の眼差しを読み取ることができるであろう。」 

 *〈史料1〉は、次のようなものでした。本文のまま引用しておきます。

  近日鬼出来し、小児を取り食ふべきの由、その告げあるにより、七歳より内の小

  児、男女上下悉く巡礼の体に出立ちて、清水寺、或いは講堂に参詣せば災を遁るべ

  しと云々、これにより競ひ参ると云々、近ごろ奇異の事なり、筆端に尽くし難し、

  (『後法興院記』明応七年(一四九八)五月十五日条)

 

 このような史料や研究を読むと、中世人と現代人の違いを改めて痛感させられますし、現代人の感覚で昔の文章を読んではならないことがよくわかります。現代人が「日本」と呼ぶ地域に暮らしていた、我々に連なる過去の人々は、死体を薬として服用していました。現代の日本はこういう歴史のうえに形成され、現代の日本人はこういう歴史を背負って生活しているということに驚くばかりです。

 無関係な他人の子どもの生き肝を薬として服用しながら、自分の子どもを愛することができるのが、中世人、いや日本人、いや人間だと言えそうです。他人の妻の腹を割きながら、愛しい女性に三十一文字で愛を語れるのが、中世人、いや日本人、いや人間だと言えそうです。一般化するつもりはありませんが、ただ、私たちはそうすることができるようです。だから…。私たちはこの歴史を踏まえて、今後どう生きていくべきなのでしょうか?