一 安藝国衙領注進状 その6
九
福永七反小 同
(半)
福久一反斗 同
行永(一丁九反) 二丁一反小 同
七 (同ヵ)
宮守⬜︎[ ⬜︎
九
則末六反 同
千同三反三百歩 同
(半)
倉重(一丁二反斗) 四反 官米三斗代
(半)
別符(一丁六反) 一丁二反斗
三 (半)
万力四反斗 (例代) 六斗二升七合代
六
久武八反 同
(力善一反) 同
二
三郎⬜︎⬜︎ 同
(米住一反) 同
一反
弥吉斗 同
六 (半)
郡分一丁五反斗
四斗代四反
二 (半)
三斗代一丁一反斗
(佐西郡)
己斐村十九町二段六十歩
(歩)
除不輸免十五町八段百廿⬜︎
馬上免七段
新宮免五反
衣波社免二反
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
一宮御讀經免十一丁七反大
弁慶三丁五反 御油免一丁
宗覺一丁五反 俊兼五反大
静暹一丁 永嚴六反
(一反ヵ)
忠兼一丁[ ] 慶覺一丁
覺順五反
粥座酒免五反
八幡宮免二反 若松
二季御祭燈油免三反 爲光 (割書)「今者國清」
諸社御幣紙免四反 同 (割書)「今者同」
三昧堂免一反 同 (割書)「今者同」
(大)
公廨田一丁九反⬜︎
高清二反大(『佐西孫三郎』) 清基一丁(『己斐六郎左衛門入道』)
歓喜丸五反 宗繼二反
代官免三反 清門
(朱筆抹消)
國役人給免一反
(朱筆)
o 國掌免一反 國清
應輸田三丁三反三百歩
(丁ヵ)
官米二斗代二⬜︎[
例代 一丁三反三百歩
(佐東郡) (マ丶)
古河村五丁一反百卅歩
除不輸免三丁八反大
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
即新宮馬上免二反
一宮免二丁四反
御供田七反
包延三反 下地 包元四反 同
御讀經免一丁七反
良慶六反 勝順五反
俊兼一反 下地 良弁五反
五ヶ寺下地一反大
公廨田三反
弥冨二反 今者今冨資遠 淂重一反
(宗)
造符所免三反 ⬜︎清
在廳屋敷五反 歓喜丸
應輸田一丁二反大 三斗代
(佐東郡)
八木村八丁二反小
除不輸免七丁二反六十歩
崇道天皇免六十歩
馬上免三反 ⬜︎王寺
一宮免四丁二反
御供田六反 守恒
御讀經免一丁六反
重尊七反 俊兼四反
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
つづく
*書き下し文・解釈は省略。
「注釈」
「衣波社」
─広島市中区江波南一丁目衣羽神社のこと。江波島東南海岸部に広島城下建設以前より鎮座した社で、「安芸国神名帳」佐東郡に「衣羽明神」と記される社に比定される。祭神市寸島比売命・多紀理比売命・多岐都比売命。旧村社。江波島を古くは長門島と称したことにより、一名長門明神ともいったというが(芸藩通志)、鎌倉時代中期のものとされる安芸国衙領注進状(田所文書)の「己斐村十九町二段六十歩」のなかに「衣波社免二反」の記載がある。江戸時代には江波明神とされたが、明治四年(一八七一)に再び衣羽神社に復した。例祭日十一月六日。厳島神社の管絃祭の折は、曳船を江波村より出し、当社では火祭りが行われた(『広島県の地名』)。
「古河村」
─広島市安佐南区。中世佐東郡内にあったと思われる村であるが、その地域は不詳。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には「古河村五丁一反百卅(二)歩」がみえる。不輸免が三丁八反大で、内訳は「新宮馬上免二反 一宮免二丁四反 五ヶ寺下地一反大 公廨田三反 造符所免三反 在庁屋敷五反」、応輸田が一町二反大であった。嘉禎四年(一二三八)四月十七日の伊都岐島社回廊員数注進状案(新出厳島文書)では、「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」の「未被立分」に「古川 中洲別府 佐東利松一間」とあり、同五年正月日の同社造回廊注進状案(同文書)にも「一間 古川 利松 中洲別府」と記される。仁治二年(一二四一)四月日付の同社神官等申状案(同文書)では、神領半不輸の地である「井原村十三町六反大」と「古河村三町四反大」を一円進止とする旨の綸旨を下すように要望している。正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(田所文書)にも「古河村田畠九反」がみえる。応永四年(一三九四)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島文書)にも「古河村」と記され、同年七月二十五日の室町将軍家御教書(厳島文書御判物帖)では、厳島社神主親胤と安芸国守護武田乗光の相論の地として「己斐 今武 定順 利松 坪井 古河 堀立 吉次等村々并諸免田」とある(『広島県の地名』)。
「造符所」─「造府所」のことか。国衙を造営・修造するための免田か。
「八木村」
─現安佐南区佐東町八木。「和名抄」の佐伯郡養我郷は養義郷の誤りとして当地に比定する説が有力であるが、その根拠には城山南西の平地の岩見田・椿原・下土居一帯に、今日は消滅したが五町と二町の範囲で条里遺構が見られたことがあげられる。地名は仁平二年(一一五二)三月八日付の平行兼私領田畠譲状(新出厳島文書)に「合弐拾肆町之内田十一丁、栗林五丁 在佐東郡内八木村者於四至境者、委細不注之」と見え、田畠の所在を示す「藤田・勢万前・餅田・大豆田・井尻・沼尻・正木・石田・塔本・井野手・沼間・重光垣内・弓田・寺田・津き田・沼辺・中黒・溝の辺・堤・延永作・東垣内・忠末・西垣内・吉貞作・則貞作・河渡・栗林」などの地名が記される。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政所解(同文書)によると、厳島社領八木郷五段の地は国延二段・宗包一段百八十歩・国里一段百八十歩からなり、同社の日御供田十五町のなかに含まれていた。
承久の乱の功によって香川経景が八木村地頭に任じられ、子景光が入部し八木城を築いたと言われ、寛元三年(一二四五)三月二十八日の関東下知状(香川文書)によると、地頭香川景信と比叡山五ヶ寺との間に十ヵ条の相論があり、幕府が裁決している。同四年八月十九日付の六波羅施行状(同文書)ではこの裁決を施行したものである。鎌倉中期の安芸国衙領注進状(田所文書)では「八木村八丁二反小」は、不輸免七丁二反六十歩、応輸田一丁六十歩からなり、不輸免として崇道天皇免・馬上免・一宮免・水分社免・八幡宮免・即福王寺免・感神院免・国庁社造立免・公廨田があげられる。またこの注進状には別に「細野村三反小」が見えるが、細野は現在の上八木にある地名である。正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(同文書)には「八木村畠二反」とある。康応元年(一三八九)十一月二十五日付の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、幕府が安芸国衙領内八木村などが香川修理亮等によって押領されている旨の東寺雑掌の訴えを認め、排除を命じたもので、この頃八木村が京都東寺に施入されていたことが知れる(『広島県の地名』)。