周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田所文書1 その8

    一 安藝国衙領注進状 その8

 

    角振社仁王講免三反      弥冨 今者今冨資遠

    諸寺勘料田一丁小       弥冨

    公廨田三丁九反大四丁四反大)   四丁四反大

     久武八反          弥冨四反大(割書)「今者今冨 資遠(ヵ)」

     盛貞跡一丁         宗繼三反

     信覺四反

                     

 (入广輸)(王一丸一丁)王一丸一丁   乙一丸五反)

    一宮神官恪勤免一丁

    梶取免四反六十歩       安弘跡

    政所敷一反

        

   應輸田十二丁八反三百歩      十二丁三反三百歩

    別府六丁七反三百歩

     久知村一丁四反六十歩

      小乃原一丁三反      官米三斗代

      即村一反六十歩      乃米三斗代

     中伴四丁          官米五斗代

     大墓村一丁三反大      同

    本村六丁一反 五丁六反

     官米五斗代 一丁五反    三斗o代二反

         一反

     例代四丁四反

  佐東郡

  阿土毛木村三丁四反大

   除不輸免三丁二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    一宮御讀經免三反       弁海 今者弥冨

    無量壽院免一丁五反

    公廨田一丁二反

     久武二反          信家一丁

    倍従免二反          遠繼

   應輸田二反大          三斗代

  安北郡

  飯室村三丁二反三百歩

   除不輸免一丁三反

    五ヶ寺免五反

    公廨田五反          高義 (高俊跡)

    主典免三反          宗俊

   應輸田一丁九反三百歩      例代

  同久武三丁五反百八十歩

   除不輸免三丁百廿歩

    五ヶ寺免二反

    八幡無量寿院免一丁三反百廿歩

    久武公廨田一丁五反

   應輸田五反六十歩        例代

  佐東郡

  東原村七反小           例代

  佐東郡

  細野村三反小           例代

  安北郡

  久村六丁百八十歩

   除不輸免三丁七反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    即新宮馬上免六反

    一宮御讀經免八反       幸印

    惣社免一反

     幸印仁王講免三反

    角振社仁王講免三反      秦覺跡

    公廨田一丁四反

     弥冨一丁          淂重四反

    在廳屋敷五反         歓喜

         三反斗

   應輸田二丁百八十歩       例代

  高宮郡

  禰村七丁七反

   除不輸免五丁七反

    一宮御讀経免五反       定賢

    八幡宮大般若經免一丁九反

     詮円一丁 今者寂円        恵性五反 今者浄円

     行海一反          榮親三反

    日吉大宮免七反        智光

    正内侍免五反

  入广輸(代官免二反)              (利包跡)

         

    公廨田一丁

   同 (兼弘五反)         遠宗一丁四反 今者淂重

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「久知村」─現安佐北区安佐町久地。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政

      所解(新出厳島文書)の「朔幣田八町四段」のなかに「久知村七反」と見

      え、鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)では

      「杣村二十五町五段」のうちに含まれる村として「久知村一丁四反六十

      歩」があり、小乃原一丁三反 官米三斗代」「即村一反六十歩 乃米三斗

      代と記す。応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島

      文書)には、社家進止領家分として久知があげられる。同年八月十八日の

      室町将軍家御教書(厳島文書御判物帖)は、武田伴遠江五郎の妨げによっ

      て「杣村内大塚久知両村」の支配を侵害された厳島神社の訴えを将軍家が

      認めたものである。しかし宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤

      原教親申状案(巻子本厳島文書)には、武田遠江入道押領分に大塚(現安

      佐南区)とともに久知が書き上げられていて応永四年の御教書の実効が疑

      われる。天文十七年(一五四八)十月二日、小早川隆景は「久地村之内兼

      吉名」を乃美備前入道に預けた(「閥閲録」所収児玉惣兵衛家文書)。同

      二十年三月二十八日には、隆景は「久地村弘末名之内六反」を末長久三郎

      に宛行い(同書所収礒兼求馬家文書)、天正十四年(一五八六)八月二十

      二日には、隆景が久地村を児玉就方へ預ける(同書所収児玉惣兵衛家文

      書)など、小早川の支配と深くかかわっていた(『広島県の地名』)。

「大墓村」─未詳。

「阿土毛木村」─現安佐南区沼田町阿戸。「芸藩通志」は「もと毛木村と一村なり」と

        記すが、この説に従えば鎌倉中期と推測される安芸国衙領注進状(田

        所文書)で、杣村と並立して「阿土木村三丁四反大」とある「阿土」

        がこの村のことかと考えられる。天文十九年(一五五〇)七月十五日

        の毛利元就同隆元連署状(吉川家文書)では、「阿土乙熊」の地が吉

        川元春に与えられ、同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注

        文(毛利家文書)には「阿土村」とある。「閥閲録」所収文書には同

        二十三年元就が児玉就方へ「阿土村半分」を宛行い、文禄三年(一五

        九四)には毛利輝元が林元善へ「伴村・阿土村」のうち三十六石六斗

        の知行を許したことがみえる(『広島県の地名』)。

無量寿院」─未詳。

「飯室村」─現安佐北区安佐町飯室。鎌倉中期とされる三月日付の安芸国衙領注進状

      (田所文書)に「飯室村三丁二反三百歩」がみえ、不輸免一丁三反(五ヶ

      寺免・公廨田・主典免と應輸田一丁九反三百歩からなり、また「同久武三

      丁五反百八十歩」があり不輸免三丁百二十歩(五ヶ寺免・八幡無量寿

      免・久武公廨田一丁五反)・應輸田五反六十歩とある。正平十三年(一三

      五八)六月二十三日の前備中守某預ケ状(吉川家文書)によれば、「飯室

      郷内湯屋一分地頭職」と「東郷地頭職」が吉川左近将監に預けられてお

      り、同二十一年二月十八日の沙弥道善打渡状(同文書)では「飯室郷湯屋

      方地頭職」を同人に打ち渡した。享禄四年(一五三一)閏五月九日の毛利

      元就証状(同文書)では飯室は吉川興経に安堵されている。天文年間(一

      五三二〜五五)高松城熊谷信直は、銀山城(跡地は現安佐南区)の武田

      光和に離反し、大内義隆の下にあった毛利元就と結ぶようになる。年未詳

      七月七日付の大内義隆書状(熊谷家文書)は、義隆が元就の注進を受けて

      信直に可部・飯室両所の領地を認めたことを示すものである。天文二十一

      年二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注進状(毛利家文書)に「三須・

      遠藤」の名がみえるが、両人ともに当地在城の武将で、熊谷氏に従ってい

      たから、その知行が認められたのであろう(『広島県の地名』)。

「東原村」─現安佐南区祇園町東原。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政

      所解(新出厳島文書)の同社日御供田十五町のなかに原郷九段百二十歩が

      見え、ついで文暦二年(一二三五)六月五日の関東下知状案(同文書)で

      は、安芸守護藤原親実に「原郷佐東郡安南郡地頭職」などを領知させて

      いる。同月十日の某書下案(厳島野坂文書)も、「守護并在国司分」とし

      て原郷を「佐東本郡・安南本郡・散在名田畠」と並列にあげる。弘長三年

      (一二六三)の安芸国新勅旨田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)は原郷

      分二町八段百二十歩をあげ、「日下・上長田・小原」の地名を記し、弘安

      十年(一二八七)頃の同帳案(白河本東寺百合文書)もこれを踏襲してい

      る。

      鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には、飯室村(現安

      佐北区)に次いで「東原村七反小」が記され、「細野村・久村」が続く。

      正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(同文書)では、原郷田

      畠六町三反六十歩(名田四町二反三百歩・畠二町百二十歩)が見え、「萱

      原・西烏田・東烏田・大豆田・北庄堺・伴田・道末・伊与寺・今津・尾

      飡・今富」など地名とおぼしきものが記される。元徳三年(一三三一)四

      月二十六日の安芸国宣(「芸備郡中筋者書出」所収)にも「原郷」とあ

      るが、文和元年(一三五二)十二月二十七日の武田氏信預ケ状(熊谷家文

      書)は「東原」を熊谷直氏に預け置いている。康応元年(一三八九)十一

      月二十五日の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、武田・品河・香河・

      金子諸氏ら近隣の武士によって押領された所領の支配回復を求めた東寺雑

      掌の訴えを認めた内容であるが、このなかに「東原郷」が見える。

      天文十年(一五四一)七月二十三日の大内義隆預ケ状写(毛利家文書)で

      は「可部・温科」の代所として原郷内一九〇貫などが毛利元就へ預けられ

      た。同二十一年二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注文(同文書)には

      「原五名・原郷三吉知行・原新庄熊谷知行」と併記されているが、これよ

      り先の同十七年四月一日には三吉致高が厳島神社大鳥居勧進のため「原郷

      之内田畠五貫文之地」を、同二十年七月二日熊谷信直は祈念のために「原

      新庄之内畠一所代八百文目」を、同二十三年五月二十四日には信直は「原

      新庄之内百疋目」をいずれも厳島神社へ寄進した(大願寺文書)。また文

      禄四年(一五九五)九月一日には毛利元就は「東原之郷」二二五石九斗三

      升を福井源右衛門尉へ宛行っている(「閥閲録」所収福井左伝次家文書)

      (『広島県の地名』)。

「細野村」─現安佐南区佐東町八木の上八木に地名として残っている(「八木村」『広

      島県の地名』)。

「久村」─「玖村」は現安佐北区高陽町(玖・金平・真亀・亀崎)。この地は大田川船

     運の要衝であり、鎌倉時代には国衙領であった。地名は年未詳三月日付の安

     芸国衙領注進状(田所文書)に「久村六丁百八十歩」があり、不輸免三丁七

     反(新宮馬上免・一宮御読経免・惣社免・角振社仁王講免・公廨田・在庁屋

     敷)と応輸田二丁三反半からなっている。応安六年(一三七三)今川了俊

     勾村地頭職内金子孫太郎入道跡」を三入庄の熊谷宗直に兵糧料所として預け

     置いた(熊谷家文書)。大永七年(一五二七)武田軍は大内氏とその支援の

     大友軍を相手に、久村城(地蔵堂山城)で攻防戦を展開(黄薇古簡集、佐土

     原文書)。その数年前、大内義興毛利元就に「久村七十貫」を与えている

     (毛利家文書)。天文二十一年(一五五二)二月二日の毛利氏から陶氏へ差

     し出した毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)には「久村」と記さ

     れ、元就は久村を家臣児玉就忠とその子元良に与えた(「閥閲録」所収児玉

     三郎右衛門家文書)。文禄四年(一五九五)九月一日、毛利輝元は直轄地と

     し、代官に馬屋原元詮をあてた(「譜録」所収馬屋原弥四郎家文書)(『広

     島県の地名』)。

「禰村」─現高田郡八千代町下根・上根・向山。近世の下根・上根・向山の三ヶ村の地

     を合わせて呼ばれた中世の村名で、永仁五年(一二九七)四月二十四日付の

     伏見天皇綸旨(東寺百合文書)に「安芸国禰村郷」と見え、安芸国が東寺造

     営料とされた際、禰村は前司知広によって八幡別宮に寄進されていたため、

     当時の要求に沿って国衙領に還付されている。東寺百合文書にはその後、正

     安(一二九九〜一三〇三)から延慶(一三〇八〜一一)にかけての領有文書

     が残る。南北朝期に入ると、貞治三年(一三六四)七月一日付で熊谷直経に

     宛てた武田氏信預ケ状(熊谷家文書)に「安芸国禰村地頭職事、依有軍忠、

     所置預也」とあり、三入庄の高松城(跡地は現広島市安佐北区)城主熊谷氏

     の所領であったことが知れる。しかし明応四年(一四九五)三月十二日付の

     棟別銭支配帳(毛利家文書)に「捌貫百卅文 禰分」とあるのをはじめ、永

     正四年(一五〇七)頃の毛利興元上洛浮役日記(同文書)にも禰分一〇〇貫

     が記されており、毛利元就の時代には、家臣の田中政重・飯田与一左衛門ら

     が知行地としていた(閥閲録)(『広島県の地名』)。