周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 1 ─中国の場合1─

 「嫁の神様」

  『捜神記』巻5─6(開放文學、http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=119

 

 淮南全椒縣有丁新婦者、本丹陽丁氏女、年十六、適全椒謝家。其姑嚴酷、使役有程、不如限者、仍便笞捶不可堪。九月九日、乃自經死。

 遂有靈向、聞於民間。發言於巫祝曰、「念人家婦女、作息不倦、使避九月九日。勿用作事。」

 見形、著縹衣、戴青蓋、從一婢、至牛渚津。求渡、有兩男子、共乘船捕魚。乃呼求載、兩男子笑共調弄之。言、「聽我為婦、當相渡也。」丁嫗曰、「謂汝是佳人、而無所知。汝是人、當使汝入泥死。是鬼、使汝入水。」便卻入草中。

 須臾有一老翁、乘船、載葦。嫗從索渡、翁曰、「船上無裝。豈可露渡。恐不中載耳。」

 嫗言無苦、翁因出葦半許、安處不著船中、徐渡之。

 至南岸、臨去、語翁曰、「吾是鬼神。非人也。自能得過、然宜使民間粗相聞知。翁之厚意、出葦相渡、深有慚感。當有以相謝者。若翁速還去、必有所見、亦當有所得也。」翁曰、「恐燥濕不至、何敢蒙謝。」翁還西岸、見兩男子覆水中。進前數里、有魚千數、跳躍水邊、風吹至岸上。翁遂棄葦、載魚以歸。

 於是丁嫗遂還丹陽。江南人皆呼為丁姑。九月九日不用作事、咸以為息日也。今所在祠之。

 

 

 「解釈」(竹田晃訳『捜神記』東洋文庫を参照)

 淮南郡全椒県(安徽省)に丁氏という嫁がいた。もとは丹陽郡(江蘇省)の丁家の娘であったが、十六歳のときに全椒の謝家へ輿入れしたのである。ところが姑が厳しい人で、仕事の量を決めてこき使い、言いつけられただけのことをしなければ笞で叩くため、嫁は辛抱ができない。とうとう九月九日に首をくくり、自殺してしまった。

 それからはその霊異が現れて、民間の評判となったのである。この神は巫女に乗りうつって、次のような神託をくだした。「家々の嫁が絶えず働く苦労を哀れに思うゆえ、九月九日は嫁を使うことを避けよ。この日には、嫁に仕事をさせてはならぬぞよ」。

 それから姿を現し、縹色の着物をつけ、黒い笠をかぶり、女中を一人連れて牛渚の渡しへさしかかった。そして渡し舟をさがしていると、二人の男が一つの船に乗り、魚をとっていた。のせてくれと呼びかけたが、二人は笑いながら口をそろえてからかうのであった。「おれの女房になってくれたら、渡してやるぜ。」すると丁氏は、「お前さんたちはよい人だと思っていたのに、わからずやなのだね。お前さんたちが人間なら、泥の中へもぐって死ぬようにしてやるよ。亡者なら、水の中へつっこんでやるから。」と言うなり、草の中に引っ込んでしまった。

 まもなくそこへ、葦を積んだ舟を漕ぎながら、一人の爺さんが通りかかった。丁氏がそれに渡してくれと言うと、爺さんは、「この舟には覆いがないでな。むき出しのまま女の人が渡るわけにもゆくめえ。お乗りいただくほどの船ではありませんぜ。」

 しかし、丁氏がかまわないと言うので、爺さんは積んである葦を半分ばかり引き出し、船底へじかにふれないように座り心地をよくしてやったうえで、ゆっくりと渡した。

 船が南の岸へ着いて、別れようとするとき、丁氏は爺さんに言った。「わたくしは神です。人間ではありません。自分で渡ることもできるですが、世の人々に少し知らせてやったほうがよいと思ったのです。葦を引き出して渡してくださったお爺さんのお志は、たいへんありがたく思いますよ。いずれなにかお礼をしましょう。あなたが早く引き返せば、きっと何かが見られるでしょうし、何かが手に入るでしょう。」お爺さんは、「さぞ乗りごこちがお悪かったでしょうに、お礼などとは痛みいります。」とあいさつをして西の岸まで引き返すと、そこに二人の男が溺れていた。それからまた一里近く進むと、何千匹という魚が水の上をはねていて、風に吹かれるままに岸へとびあがった。そこで爺さんは葦を捨て、魚を舟に積んで帰ったのであった。

 丁氏はこのようにして丹陽へ帰ったのである。江南の人たちはみな丁姑と呼ぶようになった。そして九月九日には仕事をせず、どこの家でも安息日と言うことにした。今でも方々でこの神を祭っている。

 

 

*「解題」(佐野誠子著・竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他』明治書院、2006)

 晋・干宝。二十巻。四六四条。佚文三四条。現在、二十巻本、八巻本、敦煌本のテキストが存在する。その内、敦煌本は、唐代以降に作られたと考えられる通俗的なテキストで、干宝の原著とはみなしがたい。また八巻本(稗海本とも呼ばれる)は、敦煌本と重複する話などを含み、これも干宝以後の著作と考えられている。各種類書に『捜神記』からとして引用される話との重複が最も多いのが、二十巻本であり、干宝の原著に最も近いとされる。だが、この二十巻本も明末になって突如現れたものであり、近年の研究では、明人の編集・水増しがかなり行われていると考えられている。現在の二十巻本はほぼ内容別に構成されているが、原本の捜神記にも「妖怪篇」、「感応篇」、「変化篇」などといった篇が存在したという。干宝は、『晋書』巻八二に伝があり、字は令升。新蔡郡(河南省)の人。東晋王朝で、書記官・歴史官である著作佐郎を勤めた。また、術数にも詳しく『周易』に注を施した。干宝は職業柄、王朝の管理する史料や書籍を扱えたためか、収める話は幅広く、過去の史籍等からの引用があるのが特徴である。また、善吏・孝子の話など、志怪の中ではほぼ『捜神記』のみに集中してみられるような題材もある。

 

*「六朝志怪について」(『中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他』)

 「志怪」という言葉は、「怪を志す」と読めるように、怪しいコトやモノを記した書籍の総称として用いられている。(中略)今日、志怪は一般的には「志怪小説」と呼ばれる。だが、志怪は、現代的な小説とは性質を些か異にする。志怪は少なくとも今日の小説のように創作の意志を持って書かれてはいなかった。むしろ、記録としての側面が強い。

 

*日本中世の史料を扱うと言っておきながら、まずは中国の説話から紹介していきます。中国の事例も気になったもので…。この話はいつの時代のものかはっきりしません。晋代であれば3世紀から5世紀の間、明代であれば14〜17世紀の間ということになります。

 この説話からわかることは、姑のいびりを苦に、嫁が自死することがある、と当時の人々は考えていたということです。自死の方法は縊死。志怪小説である『捜神記』は完全な創作ではないようなので、きっと似たような事件が実際に起こっていたのでしょう。

 そして、この自死した嫁は神様になり、霊異を発揮します。池澤優氏は、「本来なら怨死者(厲鬼タイプ)に属すが、祟りだけでなく、恩寵を降す力を持つ」(注1)と指摘しています。つまり、この嫁は自死したから神になったというよりは、恨みを抱いて死んだから神になった、ということなのでしょう。

 それにしても、この時代の嫁は、姑のいびりから逃れる方法が他になかったのでしょうか。一般化するのは危険ですが、この説話を読むと、当時の嫁は奴隷のように働かされていたとしか考えられません。そのうえ、誰も助けてくれない、離婚することも叶わない、逃げても捕まる、あるいは生きてゆけない。嫁ぎ先の家族関係に雁字搦めにされて、どうしようもなく自死を選んだのではないかと思えてなりません。

 これ以上の深読みをしても詮ないので、ここでやめておきますが、ただ1点、この説話からは自死に対する感情(例えば憐憫など)は読み取れません。

 

 「注釈」

1、池澤優「中国の死生観」『死および死者崇拝・死者儀礼の宗教的意義に関する比較

  文化的・総合的研究』(平成12~14年度科学研究費補助金(基盤研究C(1))研

  究成果報告書、2003.3、http://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/ikezawa.htmlhttp://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/pdf_ikezawa/mi11.pdf)。