周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 2 ─中国の場合2─

 「孝婦の冤罪」 『捜神記』巻11─290(佐野誠子著・竹田晃・黒田真美子編『中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他〈六朝Ⅰ〉』明治書院、2006)

 

 漢時、東海孝婦、養姑甚謹。姑曰、「婦養我勤苦。我已老。何惜余年、久累年少。」遂自縊死。

 其女告官云。「婦殺我母。」官收─二繫之、拷掠毒治。孝婦不苦楚、自誣服之。

 時于公為獄吏、曰、「此婦養姑十余年、以孝聞徹、必不殺也。」太守不聽。于公争不理、抱其獄詞、哭於府而去。自後郡中枯旱、三年不雨。

 後太守至、于公曰、「孝婦不死、前太守枉─二殺之、咎当此。」太守即時身祭孝婦冢、因表其墓。天立雨、歳大熟。

 長老伝云。孝婦名周青。青将死、車載十丈竹竿、以懸五旛。立誓於衆曰、「青若有罪、願殺、血当順下。青若枉死、血当逆流。」既行刑已、其血青黃、縁旛竹而上標、又縁旛而下云。

 

 

 「書き下し文」(前掲書参照)

 漢の時、東海の孝婦、姑を養ふこと甚だ謹む。姑曰く、「婦我を養ふこと勤て苦だし。我已に老ゆ。何ぞ余年を惜しみて、久しく年少を累はさんや」、と。遂に自ら縊死す。

 其の女官に告して云ふ。「婦我が母を殺す」、と。官之を收繋し、拷掠毒治す。孝婦苦楚に堪へず、自ら誣りて之に服す。

 時に于公は獄吏為り、曰はく、「此の婦姑を養ふこと十余年、孝を以て聞徹するに、必ず殺さざるなり」と。太守聴かず、于公争ふも理を得ず。其の獄詞を抱きて、府に哭して去る。自後郡中枯旱し、三年雨らず。

 後の太守至り、于公曰はく、「孝婦死に当たらざるも、前の太守之を枉殺し、咎当に此に在るべし」、と。太守即時に身ら孝婦の冢を祭り、因りて其の墓を表す。天立ろに雨りて、歳大いに熟す。

 長老伝へて云ふ。孝婦の名は周青。青将に死せんとするに、車に十丈の竹竿を載せ、以て五旛を懸く。誓ひを衆に立てて曰はく、「青若し枉死なれば、血当に逆流すべし」、と。既に行刑已みて、其の血青黄なり。旛竹に縁りて標に上り、又た旛に縁りて下ると云ふ。

 

 「解釈」(前掲書参照)

 前漢のこと。東海郡(山東省)に孝行な婦人がいて、まめまめしく姑に仕えていた。姑は、「嫁が私を世話することはとても骨の折れることでしょう。私はもう年寄りなのに、余生を惜しんで、若い人に大変なことをさせられません。」と自ら首をくくって死んでしまった。

 姑の実の娘が、役所に「嫁が私の母を殺した」と告発した。役所は婦人を収監し、ひどく鞭打って厳しく取り調べた。孝行な婦人は、苦痛に耐えきれず、自ら偽りの告白をして、罪を認めてしまった。

 このとき于公は獄吏であったが、「この婦人は姑を十数年世話してきて、孝行なことで評判です。殺すなんてことはあり得ません。」と言った。太守はそれを聞き入れなかった。于公は言い争ったが、理屈が通らず、判決文を抱いて、役所で声を上げて泣いて立ち去った。婦人を処刑した後、郡は旱になり、三年の間雨が降らなかった。

 後任の太守が到着すると、于公は事情を説明した。「孝行な婦人は、死ぬべきではなかったのです。それなのに前任の太守は、婦人を無実の罪で殺してしまいました。旱はその罰に違いありません。」太守はただちに、自ら孝行な婦人の墓で祭祀をして、その墓を表揚した。天はただちに雨を降らせて、その年は大豊作となった。

 長老たちは次のような話を伝える。孝行な婦人の名前は周青という。周青は死刑のときに、車に長さ十丈(約25メートル)の竹竿をたて、それに五色の旗をかけて、みなの前で誓った。「青(私)に罪があるのなら、殺されることを願います。そのときには血はそのまま地面に流れるでしょう。もし無実で死ぬのなら、血は逆流することでしょう。」処刑が行われると、血は青黄色をしていて、旗をかけた竹竿に沿って先端まで上がり、さらに旗にそって流れ落ちたという。

 

*今回も『捜神記』からの引用です。この説話も、池澤優氏の「中国の死生観」(注1)で検討されています。ただし、論点になっているのは、無実の罪で処刑された嫁のほうでした。

 この説話も嫁姑関係をテーマにしたものですが、自死を遂げたのは姑のほうでした。健気に仕えてくれる嫁に苦労をかけまいと、老い先短い姑は首を括ってしまったのです。嫁に迷惑をかけたくないという思いやりから自害することがある、と当時の人々は考えていたようです。この状況を改善する方法は、他になかったのでしょうか。この説話についても、自死に対する感情は読み取れません。

 前回同様、今回も説話なので、史実とするには問題があります。ここでは、嫁を思いやって縊死した姑が本当に存在したのか、という真偽の判断は留保しておきますが、仮に史実であったとして、姑が自害した理由が本当に「思いやり」であったことを、いったいどうすれば証明できるのでしょうか。遺書でも残したのでしょうか。それとも嫁に姑本人が語ったのでしょうか。また、遺書や本人の語りがあったとして、その言葉が本心を語ったものであることを、どのように証明すればよいのでしょうか。言葉は嘘をつきますから。自死の本当の理由は、自死した本人しかわからないのです。いや、これも違うかもしれません。実は、自死した本人自身が、自死に踏み切った瞬間の動機を正確に理解していたのかどうかもわからないのです。

 

 「あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺するということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない。なにが発作的行為の引き金を引いたか、それを立証することはほとんどつねにできない。」

 アルベール・カミュ「不条理な論証」(『シーシュポスの神話』新潮文庫

 

 どうやら自死の要因は1つではないようです。つまり、自死は複数の要因が覆い重なって引き起こされるのではないでしょうか。また、自死を引き起こした要因を証明することができないとなれば、私たちが自死の要因だと考えてきたものは、いったい何だったのでしょうか。ひょっとすると、それは「人間はこんな状況に陥ると自死する」という第三者の判断にすぎないのかもしれません。自死という出来事についてわかるのは、生きている私たちがそれをどのように理解し意味づけたか、ということだけではないでしょうか。そして、このような「自死に関する知」が新たな自死を生むのかもしれません。生きている私たちは、自死予備軍である可能性を免れることはできないのですから。

 

 さて、もう1つ問題があります。姑は嫁の苦労を思いやるという理由から、なぜ縊死という手段を選択したのでしょうか。嫁への思いやりを示すための行為なら、他に選択肢はいくらでもあったはずです。今回の場合、その思いやりが仇となり、嫁は処刑されるわけですから、姑の善意による企ては失敗に終わっています。(自死の目的と現実に起きた結果が、必ずしも一致するとは限らないことを、この説話から教訓として読み取るべきなのかもしれません。)

 この選択は、個人的な価値判断によってなされたことではあるのですが、個人の価値判断には必ず社会的な価値判断が影響を与えるものです。「迷惑をかけるくらいなら、死んだほうがましだ」という社会的な価値観が当時の中国にあり、それを強く内面化していたと考えられそうです。当然、こうした価値観が一般的であったからといって、すべての老人が自死を遂げるわけではありません。その価値観の強度が問題なのです。強く内面化される人とそうではない人の違いは、いったい何に由来するのでしょうか。それこそが個人的な資質の問題なのでしょうか。おそらくそればかりではないでしょう。きっと、自死者が生活してきた環境の影響も大きいのではないでしょうか。社会といった広く漠然とした環境ではなく、家族や親族、地域などのようなミクロな共同体の影響や、そこでの生活体験(成功や失敗の体験)が、価値観や規範を強く内面化させるのではないでしょうか。現代であれば、学校や会社、SNSなども、そのミクロな共同体に含めてよいかもしれません。

 私は、知らず知らずに身につけてしまっている、誰もが疑わない、社会的に是とされるイデオロギーこそが、自死へと誘う真の曲者だと思っています。

 

 「注釈」

1、池澤優「中国の死生観」『死および死者崇拝・死者儀礼の宗教的意義に関する比較

  文化的・総合的研究』(平成12~14年度科学研究費補助金(基盤研究C(1))研

  究成果報告書、2003.3、http://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/ikezawa.htmlhttp://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/pdf_ikezawa/mi11.pdf)。