周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 4 ─日本の古代2─

 「允恭天皇」『古事記』下巻(日本古典文学全集1、小学館、1973)

 

 天皇崩之後、定木梨之軽太子所知日継、未卽位之間、姧其伊呂妹軽大郎女而歌曰、

  阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理 夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾

  和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久都麻袁 許存許曾婆 夜須久波陀

  布礼

此者志良宜歌也。又歌曰、

  佐々波爾 宇都夜阿良礼能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登

  母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀礼婆美陀礼 佐泥斯

  佐泥弖婆

此者夷振之上歌也。

 是以百官及天下人等背軽太子而、帰穴穂御子。爾軽太子畏而、逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器〔爾時所作矢者、銅其箭之內。故号其矢謂軽箭也云々〕。穴穂御子亦作兵器〔此王子所作之矢者、即今時之矢者也。是謂穴穂箭也〕。於是穴穂御子興軍囲大前小前宿禰之家。爾到其門時、零大氷雨。故歌曰、

  意富麻幣 袁麻幣須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟

爾其大前小前宿禰挙手打膝、儛訶那伝〔自訶下三字以音〕歌参来。

其歌曰、

  美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登々余牟 佐斗毘登母

  由米

此歌者宮人振也。如此歌參帰白之、我天皇之御子於伊呂兄王無及兵。若及兵者、必人咲。僕捕以貢進。爾解兵退坐。故大前小前宿禰捕其軽太子、率参出以貢進。其太子被捕歌曰、

  阿麻陀牟 加流乃袁登売 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久

又歌曰、

  阿麻陀牟 加流袁登売 志多多爾母 余理泥弖登富礼 加流袁登売杼母

故其軽太子者流於伊余湯也。亦将流之時、歌曰、

  阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐

  泥

此三歌者天田振也。又歌曰、

  意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多々弥

  由米 許登袁許曾 多々美登伊波米 和賀都麻波由米

此歌者夷振之片下也。其衣通王献歌。其歌曰、

  那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富

  礼

故後亦不堪恋慕而追往時、歌曰、

  岐美賀由岐 気那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士〔此云山多豆者、是今造木者也〕

故追到之時、待懐而歌曰、

  許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 々多波理陀弖 佐袁々爾波 

  々多波理陀弖 意富袁余斯 那加佐陀売流 淤母比豆麻阿波礼 都久由美

  能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意

  母比豆麻阿波礼

又歌曰、

  許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾

  麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加気 麻久比爾波 麻多麻袁加気 

  麻多麻那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布都麻 阿理登伊波婆許

  曾余 伊弊爾母由加米 久爾袁母斯怒波米

如此歌卽共自死。故此二歌者読歌也。

 

 「書き下し文」

 天皇崩りましし後、木梨之軽太子、日継を知らしめすに定まれるを、未だ位に即きたまはざりし間に、其のいろ妹軽大郎女に姧けて歌曰ひたまはく、

 

  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下聘ひに 我が聘ふ妹を 下泣き

  に 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ

 とうたひたまひき。此は志良宜歌なり。又歌曰ひたまはく、

 

  笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝し

  さ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

とうたひたまひき。此は夷振之の上歌なり。

 是を以ちて百官及天下の人等、軽太子に背きて、穴穂御子に帰りぬ。爾に軽太子畏みて、大前小前宿禰大臣の家に逃げ入りて、兵器を備え作りきたまひき〔爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ云々〕。穴穂王子もまた兵器を作りたまひき〔此の王子の作りたまひし矢は、即ち今時の矢なり。是を穴穂箭と謂ふ〕。是に穴穂御子、軍を興して大前小前宿禰の家を囲みたまひき。爾に其の門に到りましし時、大氷雨零りき。故、歌曰ひたまはく、

 

  大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ

とうたひたまひき。爾に其の大前小前宿禰、手を挙げ膝を打ち、儛ひかなで歌ひ参来。其の歌に曰く、

 

  宮人の 脚結の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ

とうたひき。此の歌は宮人振なり。如此歌ひ参帰て白さく、「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵をな及りたまひそ。若し兵を及りたまはば、必ず人咲はむ。僕捕へて貢進らむ」とまをしき。爾に兵を解きて退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参出て貢進りき。其の太子、捕へて歌曰ひたまはく、

 

  天飛む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

とうたひたまひき。又歌曰ひたまはく、

 

  天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽嬢子ども

とうたひたまひき。故、其の軽太子をば伊余湯に流しまつりき。又流さえたまはむとせし時、歌曰ひたまはく、

 

  天飛ぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね

とうたひたまひき。此の三つの歌は天田振なり。又歌曰ひたまはく、

 

  王を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 

  我が妻はゆめ

とうたひたまひき。此の歌は夷振の片下なり。其の衣通王、歌を献りき。其の歌に曰く、

 

  夏草の あひねの浜の 蠣貝に 足蹈ますな 明かして通れ

とうたひき。故、後に又恋慕ひ堪ねて追い往く時に、歌曰ひたまはく、

 

  君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ〔此に山たづ

  と云ふは、是れ今の造木なり〕

とうたひたまひき。故、追ひ到りし時、待ち懐ひて歌曰ひたまはく、

 

  隠り処の 泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て 大峰よ

  し 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 

  後も取り見る 思ひ妻あはれ

とうたひたまひき。又歌曰日たまはく、

 

  隠り処の 泊瀬の河の 上つ瀬に斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 

  真玉を懸け 真玉如す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妻ありと言はばこそよ 家

  にも行かめ 国をも偲ばめ 

とうたひたまひき。如此歌ひて即ち共に自ら死にたまひき。故、此の二つの歌は読歌なり。

 

 「現代語訳」

 允恭天皇がお亡くなりになったのちに、皇太子木梨之軽王は皇位におつきになることに決まっていたが、まだ皇位にお着きにならなかった間に、その同母妹の軽大郎女と密通して、

 

  山田を作り、山が高いので、水を引くための下樋を走らせた。それと同じく、ひそかに私が言い寄る妹に、人目を忍んで私が慕い泣く妻に、今夜こそは心安らかにその膚に触れることよ。

とお歌になった。これは志良宜歌という歌曲である。また、

 

  笹の葉を打つ霰の音がたしだしと聞こえるが、そのように確かに共寝をしたのちは、あなたが私から離れていったとしてもかまわないよ、いとしいままに寝さえしたならば、〈刈薦の〉ばらばらに離れるのなら離れてもかまわないよ、寝さえしたならば。

とお歌いになった。これは夷振という歌曲の上歌である。

 この密通事件を知って、朝廷に仕える官人や国民たちは、軽王にそむいて穴穂御子のほうに心を寄せてしまった。それで軽王はこのことを恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げ込んで、武器を作って備えられた〔その時に作った矢は、その矢筈を銅にした。それゆえ、その矢を名づけて軽箭というのである。云々〕。穴穂御子もまた武器をお作りになった〔この御子のお作りにあった矢は、すなわち今日使われている矢である。これを穴穂箭と呼んでいる〕。そして穴穂御子は軍勢を発して大前小前宿禰の家を包囲された。さてその家の門にお着きになった時、氷雨がひどく降ってきた。そこで、

 

  大前小前宿禰の金門の陰に、こう寄ってこい、ものどもよ。ここに立って雨のやむのを待つとしよう。

とお歌いになった。すると大前小前宿禰が手をあげ膝を打ち、舞を舞い、歌を歌いながら出てきた。その歌に、

 

  宮人の脚結につけた小鈴が、落ちてしまったといって、宮人たちが騒ぎ立てている。里人たちも軽挙妄動を慎みなさいよ。

と歌った。この歌は宮人振という歌曲である。大前小前宿禰はこのように歌いながら穴穂御子の前に参って、「わが皇子さまよ、兄君に兵士を差し向けなさいますな。もし兵士を差し向けなさるならば、きっと世間の者は兄弟の道にもとると誹り笑うでしょう。私が捕えてその身柄をお渡し致しましょう」と申し上げた。これを聞いて、穴穂御子は軍勢の包囲を解いて後方にしりぞかれた。そこで大前小前宿禰はその軽王を捕え、連れてきた穴穂御子に差し出した。その皇太子軽王は捕えられて、

 

  軽の乙女よ。おまえがひどく泣くならば、人が私たちのことを知ってしまうだろう。私はそれを気づかって、波佐の山の鳩のように、忍泣きに泣くことよ。

とお歌いになった。そしてまた、

 

  軽の乙女よ。こっそり寄って私と寝ていきなさい。軽の乙女たちよ。

とお歌いになった。そしてその後、その軽王を伊予湯に配流し申した。ここにまた配流されようとなされた時、軽王は、

 

  空を飛ぶ鳥も使者なのだよ。鶴の声が聞こえる時には、私の名をいって、私のことを尋ねておくれ。

とお歌いになった。この三つの歌は天田振という歌曲である。また軽王は、

 

  大王である私を四国の島に追放しても、〈船余り〉必ず帰ってこようぞ。その間は私の畳をそのままにして斎み慎んでいなさいよ。ことばでは畳というが、実はわが妻、おまえ自身が潔斎して待つのだよ。

とお歌いになった。この歌は夷振という歌曲の片下である。その時、衣通王(軽大郎女)は歌を軽王に献上した。その歌に、

 

  あいねの浜の牡蠣の貝殻に、足を踏み込んでおけがをなさいますな。ここで夜を明かしてからお通りなさいませ。

と歌った。さて軽王が旅立ったのち、軽大郎女はなお恋い慕う思いに堪えかねて、そのあと追っていったが、その時に、

 

  あなたの旅は随分日もたちました。お迎えにまいりましょう。こうしてお待ちするのは堪えられません〔ここに山たずというのは、これは今も造木のことである〕

とお歌いになった。こうして軽王のもとに追いついた時、軽王は待ち迎え、なつかしく思って、

 

  泊瀬の山の大きな峰には幡を張り立て、小さな峰にも幡を張り立て、二人の仲が定まっている、私のいとしい妻よ、ああ。臥している時も、立っている時も、後々までもかいがいしく、私が世話をしようと思う、いとしい妻よ、ああ。

とお歌いになった。また、

 

  泊瀬の川の上流の瀬に斎み清めた杭を打ち、下流の瀬に立派な杭を打ち、斎み清めた杭には鏡をかけ、立派な杭にはみごとな玉をかけ、そのみごとな玉のように私が大切に思う妻、その鏡のように私が大切に思う妻。その妻が家にいるというのならば、家にも訪ねていこうし、また故郷をなつかしくも思おう。しかし妻は家にはいないのだから、その家も故郷も、しのぶかいのないものなのだ。

 とお歌になった。このように歌って、そして二人一緒にみずからの命を断たれたのである。そしてこの二つの歌は読歌という歌曲である。

 

 「注釈」

 引用が少々長くなり、わかりにくくなったので、木村純二氏の研究(「恋の起源 ─『古事記イザナミ神話の意味するもの─」『人文社会論叢 人文科学篇』30、2013、http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/4930/1/JinbunShakaiRonso_J30_R1.pdf)で簡潔にまとめられている筋立てを、そのまま提示しておきます。

 

 「『古事記』に拠れば、允恭天皇崩御した後、長兄の軽太子が皇位を継ぐよう定められていたが、太子は同母の妹である軽郎女と姦通してしまう。臣下たちが軽太子を拒んで、穴穂皇子を支持したため、軽太子は大臣である大前小前宿禰のもとへ逃げ込み、武器を備えた。穴穂皇子(後の安康天皇)が軍勢を動員して取り囲むと、大前小前宿禰が間に立って、穴穂皇子には実の兄に矢を向けることの非を説き、軽太子には自首を促した。捕らえられた軽太子は伊予に流されるが、恋しさに堪え切れなくなった軽郎女があとを追い、思いを確かめ合った二人は、「共に自ら死」んでしまった。」

 

 この要約を参考に、ポイントを整理しておくと、以下のようなものになります。

  ①同母兄妹の姦通はタブーであり、軽太子と軽郎女はその禁忌を破った。

  ②それが露見したため、臣下たちは弟の穴穂皇子を支持(注1)。

  ③軽太子は捕縛され、伊予に配流。

  ④追いかけてきた軽郎女と軽太子は、一緒に自死を遂げる。

 

 一見してわかるように、愛し合う二人が自害に至るまでに、いくつかの挫折・絶望が設定されています。軽太子は許されざる相姦の罪を犯し、臣下の支持を失って皇位継承争いに敗れ、伊予に流罪となって、都に帰ることもできなくなったのです。軽太子には、自死を選択する要素がいくつも備わっていたと言えそうですが、軽郎女には相姦の罪しか理由がなさそうです。「死にたい」と漏らしたのは軽太子のほうで、軽郎女は愛しい軽太子と死別することを避けるため、ともに死の世界に向かうため、死ぬことを選んだのかもしれません。二人が自死を選んだ要因は異なっていたのではないでしょうか。

 神話・物語といった作品をこれ以上分析しても、史実は浮かび上がってきません。わかるのは、作り手の意図や、それに影響を及ぼした当時の社会的価値観などでしょう。そういったものをあぶり出す作業も重要なのでしょうが、私にはどうしてよいのかもわからないので、このあたりで筆を止めておきます。

 

 「注」

1、石田千尋「『古事記』木梨之軽太子の譚」(『山梨英和大学紀要』7、2009・

  2、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180411213520.pdf?id=ART0009070796)では、相姦の露見によって臣下の支持を失ったのではなく、軽郎

  女と結ばれた喜びによって詠んだ歌が、はからずしも皇太子としての立場を否定す

  る、つまり天皇の世界の秩序に反する内容であったため、人々は軽太子を見棄てた

  と解釈しています。