周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 5 ─日本の古代3─

 『日本霊異記』中巻 (日本古典文学全集6、小学館、1975)

 

   己が高徳を恃み、賤形の沙弥を刑ちて、以て現に悪死を得し縁 第一

 

 諾楽の宮に宇の大八嶋国御めたまひし勝宝応真聖武太上天皇、大誓願を発したまひ、天平の元年の己巳の春の二月八日に、左京の元興寺にして大法会を備けて、三宝を供養したまひき。太政大臣正二位長屋親王に勅して、衆僧に供する司を任けたまふ。時に一の沙弥有り。濫シく供養を盛る処に就きて、鉢を捧げて飯を受けたり。親王之を見て、牙冊を以て沙弥の頭を罰つ。頭破れて血を流す。沙弥頭を摩デ、血を捫ヒテ、悕ミ哭きて、忽ち觀えず。去れる所を知らず。時に法会の衆、道俗、偷に喭キテ言はく、「凶し、善くはあらず」といふ。之を二日逕て、嫉妬ミする人有りて、天皇に讒ぢて奏さく、「長屋、社稷を傾けむことを謀り、国位を奪らむとす」とまうす。爰に天心に瞋怒りたまひ、軍兵を遣はして陳ふ。親王自ら念へらく、「罪无くして囚執ハル。此れ決定して死ぬるならむ。他の為に刑ち殺されむよりは、自ら死なむには如かじ」とおもへり。即ち、其の子孫に毒薬を服せしめ、絞り死し畢りて後に、親王、薬を服して自害したまふ。天皇、勅して、彼の屍骸を城の外に捨てて、焼き末き、河に散らし、海に擲てぬ。唯し親王の骨は土佐国に流しぬ。時に其の国の百姓に死ぬるひと多し。云に百姓患へて官に解して言さく、「親王の気に依りて、国の内の百姓皆死に亡すべし」とまうす。天皇、聞して、皇都に近づけむが為に、紀伊国の海部郡の椒枡の奥の嶋に置きたまふ。嗚呼、惆しきかな。福貴の熾なりし時には、高名華裔に振へりと雖も、妖災窘ムル日には帰む所无し。唯し一旦に滅びにき。誠に知る、自らの高徳を恃み、彼の沙弥を刑つときは、護法も嚬嘁み、善神も惡み嫌ひたまふ。袈裟を著たる類は、賤形なりと雖も、恐りずはあるべからず。隠身の聖人も其の中に交りたまへり。故、憍慢経に云はく、「先生に位の上の人、尺迦牟尼仏のみ頂を履佩きて踟む人等の罪云々」とのたまへり。何に況や、袈裟を著たる人を打ち侮る者は、其の罪甚だ深からむ。

 

 「解釈」(前掲書より引用)

   自分の高位を誇り、いやしい身なりの僧を打って、現世で悪い死に方をした話 

   第一

 

 奈良の京で天下をお治めになられた聖武天皇は、仏前に大きな誓いを立てられ、天平元年(七二九)春二月八日に、奈良左京の元興寺に大法会を準備なさり、三宝を供養された。太政大臣正二位の長屋親王に勅を下して、僧侶たちに食事を捧げる役の長官に任命なさった。時に一人の僧がいた。不謹慎にも炊事場に入って来て、椀を捧げてご飯をもらった。親王はこれを見て、象牙の笏で僧の頭を打った。頭は破れ、血が流れ出た。僧は頭をなで、血をぬぐい、恨めしげに泣いて、たちまち姿を消してしまった。どこへ行ったかわからない。その時、法会に集まった多くの僧侶や俗人たちは、ひそかにささやいて、「何か不吉だ。よいことはあるまい」と言い合った。それから二日後、親王をねたみそねむ人がいて、天皇に讒言して、「長屋親王は国家を倒そうとはかり、帝位を奪おうとしております」と申しあげた。そこで天皇は非常に立腹され、軍兵を差し向けて親王と戦わせた。親王は観念し、「なせる罪もなく捕らえられる。捕らえられたら必ず殺されるだろう。他人の手で殺されるよりは自殺したほうがましだ」と覚悟を決めた。そこで子や孫たちに毒薬を飲ませ、絞殺した後、親王御自身も毒薬を仰いで自害された。天皇は勅を下して、その死骸を城外に捨て、焼き砕いて河に投げ散らし、海に捨てさせた。ただ親王の骨は土佐国に移して葬らせた。折も折、土佐国では多くの人民が死んだ。そこで人民たちは憂え恐れて、役所に訴えの文書を奉り、「親王の祟りによって人民が死に、このままでは国内の者はみな死に絶えてしまいます」と申しあげた。天皇はこれをお聞きになり、親王の遺骨をいま少し都の近辺に持って来ようと、改めて紀伊国海部郡の椒枡村、沖の島に移された。ああ悲しいことよ。富と地位の盛んな時は、その高名が国中に響きわたるが、いったん災難が身に振りかかると、寄るべもなくなってしまう。こうして親王はほんの一朝にして滅びてしまった。自らの高位を誇って僧を打ったため、仏法守護の神が顔をしかめ、善神が憎み嫌ったのであることが本当にわかる。袈裟を来た人たちは、たとえいやしい身なりをしていても、恐れなければならない。身をやつした聖人もそういう者の中に混じっておられるからである。このようなわけで、憍慢経に、「前世で位の高かった人でも、お釈迦様の頭を靴で踏みつけた人の罪は重い……」と述べておられる。ましてや、仏弟子の袈裟を着た人を打ち侮る者は、その罪がいっそう深いのである。

 

 「解説」(前掲書より部分引用)

 『日本霊異記』三巻は日本最初の仏教説話集である。この書は通俗には『霊異記』とだけで通じるが(以下この略称を用いる)、具名(正式の名称)は『日本国現報善悪霊異記』という。(中略)

 『霊異記』の著者は南都薬師寺の僧景戒であるが、景戒の経歴・伝記はよくわからない。(中略)

 『霊異記』の成立年代には明確でない点がある。下巻の序文に延暦六年(七八七)とあって、この年を基準にして釈迦入滅の年を数えている。おそらくこのころに、下巻まで全体的に一応の原形がまとめ上げられたのであろう。さて、一応まとめ上げられた後に、増補の手も加わった。下巻三十九話に、平安の宮に十四か年、天下を治めたもうた天皇、つまり嵯峨天皇のことが記されてある。これは嵯峨天皇の即位十四年目のこと、すなわち弘仁十三年(八二二)をさすものである(延暦六年より三十五年の後に当たる)。だから『霊異記』はほぼこのころ増補の手が加わって成立したと推定できる。(中略)

 『霊異記』には種々の性格であるが、おおまかにいえば、これは私度僧による、私度僧のための、私度僧の文学と規定できる面が強い。私度僧の作った、私度僧階級を中心とする人々に読まれるべき文学作品というわけである。『霊異記』は奇譚意識と規範意識に深く彩られている。もっとも、これは大陸の『冥報記』(唐・唐臨)・『金剛般若経集験記』(唐・孟献忠)などの流れを引いたものである。しかし、『霊異記』には、景戒特有の深い宗教意識の裏打ちのあることはいうまでもない。(中略)

 中国の『冥報記』『金剛般若経集験記』などの仏教霊異譚を見て「自土(=日本)の奇事」を述べようとしたことは景戒のみごとにすぐれた着想であった。景戒はこの自土の記事を何よりも志を同じくする私度僧に読ませ、またその教化活動を支持する農民に聞かせたかったに違いない。自らの求道の道を共に歩んでもらわんがために、かつて行基が「罪福を説き」「民衆の家々を訪ねて仏教を平たく説いた」(続紀養老元年四月詔)ように、景戒も自己の著作を教化の材料の一つにと期待していたであろう。だから、景戒にとって奇事は単なる奇事であっては困るのだ。それはありえない奇事であると同時に、また当然ありうる現実でなければ規範になり得ないのである。(中略)

 序文によって見るかぎり景戒の編纂意識はつまりこうである。中国の仏教説話集にならって日本の奇事を集めた。これによって人々に善因善果、悪因悪果の応報のすみやかなることを知らせ、現世の行動の規範としたいというのである。そして現報と表相とを基盤とする歴史意識から集めた説話を聖武天皇以前と聖武天皇時代と聖武天皇以後との三巻に分けて時代順に配列したのである。(後略)

 

 「注釈」

 これは、天平元年(七二九)に起きた、「長屋王の変」を素材にした説話と考えられます。

 さて、著者の景戒は、長屋王に次のような心理を語らせます。「なせる罪もなく捕らえられる。捕らえられたら必ず殺されるだろう。他人の手で殺されるよりは自殺したほうがましだ」。

 当然、この描写も史実ではないのでしょう。ですが、無実の罪で捕らえられそうになっている人間が、捕らえられて処刑されることを嫌い自死を遂げる、という因果律を、当時の人間が考えていたことに間違いありません。

 ここで考えておきたい問題が二つあります。一つは、自死の要因です。無実の罪で捕らえられそうになったから自死を選択したのか、他人の手で処刑されることが予期されたから自死を選択したのか、それとも、無実の罪で捕らえられたうえに、処刑されることが予期されたから自死を選択したのか、という点です。かりに、国家転覆・帝位簒奪計画が事実で、その咎で捕らえられていたなら、長屋王は自害しなかったのでしょうか。あるいは、捕らえられた後に処刑されず、流罪のような比較的軽い量刑であったなら、自害しなかったのでしょうか。

 長屋王の心情描写をみると、無実の罪によって軍勢が派遣されたという事態から、捕縛され処刑されるという予期が生じ、そこから他人に殺されることを拒否するという思考が生じていたことになります。無実の罪による軍勢派遣という一つのきっかけから、絶望的な事態が次々と予測され、それが澱のように積み重なって自死を遂げたように描かれています。人間の心を折る要因は一つではなく、ある出来事からさまざまな予期が派生し、それらが実体をもって認識されるからこそ、逃れられないと考えるのではないでしょうか。

 残念ながら、これ以上のことを突きとめることはできません。長屋王の心のなかで、どのような考えがわき起こっていたと、著者景戒は考えていたのでしょうか。とくに、何も考えていなかったのかもしれません。それにしても、「他人の手で殺されるよりは、自殺したほうがましだ」という思考は、どのような言葉で分類・定義すればよいのでしょうか。無実の証明、恥辱、怒り、悲しみ、恨み…。一つに絞り込むには、どれもすっきりしません。第三者が要因を正確に分析できないように、当事者も冷静に自己の心理を分析できないからこそ、自死を遂げるのかもしれません。

 もう一つ問題があります。「他人の手で殺されるよりは、自殺したほうがましだ」という発想は、いったいどこから生まれてきた考えなのでしょうか。反対に、「自殺するよりは、他人の手で殺されるほうがましだ」という価値判断は、当時存在しなかったのでしょうか。かりに存在していたとしても、当たり前すぎて書き残すに値しなかったのでしょうか。

 いずれにせよ、景戒は「自死」をよい死に方だと考えていないことだけは、はっきりしています。当たり前のことのように思えますが、奈良時代では、自死を「悪死」とみなす常識があったようです。

 

 

*「長屋王の変」─729(天平1)左大臣長屋王を自害させた事件。王は、国家を傾けようとしていると密告され、尋問直後、妻の吉備内親王、子の膳夫王・桑田王ら4王とともに自殺した。他に7人が流罪となったが、のちに吉備内親王が無罪とされたのをはじめ、事件にこれ以上の広がりはなかった。光明子が生んだ皇太子の夭折後、聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積親王を生み皇位継承者になる可能性がでてきたことから、光明子聖武天皇の皇后(光明皇后)にするため、反対派の長屋王を除こうとした藤原氏の陰謀事件。まもなく天平改元光明子立后がなされる(『新版 角川日本史辞典』)。