二 沙弥某譲状 その4
一所畠栗林 南山大歳[
(公ヵ)(二ヵ)
件所者、國掌⬜︎⬜︎⬜︎郎掾近清并同嫡子矢目近道、出擧物代ニ所三
引二進上山權⬜︎兼直一也、而彼子息正行房乗兼遣二件證文一令三所二
望用途一之間、与二渡銭五貫面葦毛馬一疋一畢、此内當時下人中五丸
(兼ヵ)
給恩屋敷者、在廳⬜︎安南郡公文左藤大夫助眞〈左藤四郎大夫助正父左藤
五郎大夫清正祖父〉之[ ]局、自二清近之手一負物之代ニ割二取
之一、多年無二違乱一居住之間、令レ進二件次第沙汰證文等於石井入
道殿一之間、彼状等同共以令レ帯レ之者也、然者云レ彼云レ此一向
令二進退一畢、
(内ヵ)
一所屋敷田一反 蓮法房垣内 留守所御薗⬜︎
(令)
件所、彼法師後家并嫡女引文在レ之、⬜︎[ ]所當公事於留守所、
令二自作一否即進止也、
一所屋敷田畠二反 後藤掾 同
件田地并權三郎男等彼父利恒引文分明也、子細同前、
一所國清屋敷田畠 同
父
件所者、故得王冠者一具證文也、子細見二彼o國□引文一者也、
巨細先段同前、
■■■■
一所屋敷田畠一反 脇
件子細、就本主下書生近末後家并娘訴状、留守所之外題明白也、
當時乙靏女給恩也、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
(田村ヵ)
一所田二反 景行給田 山⬜︎⬜︎畠田
(嘉ヵ)
件田地者、自レ本弥冨領也、仍譲二与刑部阿闍梨□憲一畢、而自二
彼後家之手一菜原阿弥陀仏[ ]時資領之者也、
(ヵ)
一所田二反 〈二王冠者給田國元譲内也、〉 同村 米原
一所田四反 下人等給田 資俊同 松本
(安南郡)
船越村一丁一反
田五反
畠五反
塩濱一反
一所田五反 資俊大迫
一所畠三反 同東浦 自見乃古志北
一所二反 同西浦 同
一所塩濱一反 同自レ堀南東浦
件所々、子細見二于國衙外題以下次第證文等一、将又源六宗実入道
(父ヵ)
〈源頭実直法師之⬜︎毗沙王入道祖父〉起請文并書状等分明也、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
(安南郡)
一 原郷田畠六丁三反六十歩 〈云二國衙一云二地頭一両方承伏、建保承久取帳、爲二弥冨
久武各別一之間、不レ及二巨細一者也、〉
名田四丁二反三百歩
畠二丁百二十歩
一所田一丁 萱原
一所同一丁内 〈多阿五反 願覺跡今者毗沙王、依二多阿譲状一也、毗沙二郎五反
〈地頭押領依二博打一〉〉西烏田
同
一所o一丁 同東烏田
同
一所o同三反 ■■■大豆田
一所同四反 資俊大沼口 國元作
一所三百歩 〈大沼田苗代〉 同自同溝上
一所同五反 同 友道作
一所畠二反 資俊北庄堺 藤太作
一所同二反 伴太 墓畠云々
一所同二反 道末 又鈎金
一所同三反 〈六波羅殿御下知在之、〉 伊与寺
一所同四反 今津 長畠云々
一所同二反 ■■■同 矢古畠云々
(給ヵ)
一所同二反 ■■尾飡 國助⬜︎畠
一所同二反 同今冨
一所同二反 小向
一所同一反小 東畠 宗房作
一所畠二反 下作人 □□
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)
つづく
*割書は〈 〉で記しました。
*書き下し文・解釈は省略。
「注釈」
「下書生」
─書生は、日々国司の庁に出勤して、書類を認め事務をとったことが『今昔物語』に見える(『新訂官職要解』)。上書生・下書生にわかれていたのかもしれません。
「外題」
─「外題安堵」。所領・土地の譲状・寄進状、売買の袖・奥、あるいは裏など余白に、その行為を承認する旨の文言を記したもの。平安時代10〜12世紀に始まるが、室町期にはほとんど見られなくなる(『古文書古記録語辞典』)。
「菜原」
─南原(なばら)村か。安佐北区可部町南原。冠山(735・7メートル)より南流する南原川の谷筋に集落が開かれ、北は可部峠を越えて山県郡本地村(現千代田町)、西南は綾谷村。南原川沿いに石見浜田路が通り、谷の途中と可部峠の二ヵ所に一里塚があった。応安六年(一三七三)九月五日の今川了俊書下(熊谷家文書)に「加部庄内」の「名原両村」を熊谷宗直に預け置いたとみえる。古く九品寺村を下南原村とよんでいたから、同村域を併せた地が名原両村とよばれ、可部庄に含まれていた。至徳二年(一三八五)十月三日の今川了俊安堵状(同文書)は、応安六年に宗直に預け置いた「名原郷」を安堵したもの。南原八幡宮(現幡崎八幡宮)は、近世には当村・九品寺村と東綾谷に氏子があり、かつての名原郷の範囲を反映している。また、当村は、可部庄総鎮守と推定される両延八幡宮の祭祀圏に含まれながら(芸藩通志)、南原八幡宮は三入庄鎮守の三入八幡宮の管掌下にある(郡中国郡志)など、かなり流動的であった。南原八幡境内からは壺形・甕形・鉢形の三種の弥生式土器が出土、南原八幡遺跡といわれる。またここより約二キロの北方の南原川西側の水田から縄文時代の石斧が出土、長さ十三センチ・最大幅七センチ。南原遺跡と呼ばれる(『広島県の地名』)。
「船越村」
─現安芸区船越町。畑賀村の西南に位置し、南部は海に面する。北は標高200メートル前後の山を背負い、東部を花都川、西部を的場川が南流してそれぞれ小さな河谷と扇状地を形成。正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某譲状(田所文書)に「船越村一丁一反」とみえ、田五反が大迫に畠五反が見乃古志(みのこし)より北にある東浦・西浦に、塩浜一反が堀より南の東浦にあったとする。大迫の名は的場川上流の谷に残り、谷奥には田所氏が府中(現安芸郡府中町)の水分神社を分祀したと思われる水分神社が鎮座する。見乃古志も村西端の丘陵南縁に水越の地名があり、この付近が当時の海岸線で塩浜があったことが知られる。南北朝から室町前期ごろに東から阿曾沼氏が進出する。大内氏と銀山城(跡地は現安佐南区)の城主武田氏とが文正元年(一四六六)に船越で衝突した(年欠閏二月一日付武田信賢感状写「閥閲録」所収中村藤左衛門家文書)。その後阿曾沼氏は大永三年(一五二三)尼子・武田方に降ったため、同七年陶興房の率いる大内軍が船越に進軍し、阿曾沼氏本拠鳥籠山(とこのやま)城の「手宛」として、船越と海田(現安芸郡海田町)の境にある日浦山城を攻略している(年欠三月十九日付「弥富依重軍忠状」今仁文書)。天正年間(一五七三─九二)と思われる年欠正月三十日付阿曾沼元秀奉行人連署打渡坪付(大願寺文書)には元秀が大願寺(現佐伯郡宮島町)に寄進した五筆の土地のうち三筆が「舟越」とある。村を東西に分ける稜線上に木舟山城(別名市場山城)、日浦山に続く丘陵南端に飯山城があり、ともに阿曾沼氏家臣小田村氏の居城と伝える(芸藩通志)。前者は水軍城と考えられ、小田村氏は阿曾沼水軍の一端を担っていたと思われる(『広島県の地名』)。
「原郷」
─「和名抄」高山寺本・東急本ともに「幡良」と記し、前者が「波羅」、後者が「波良」と訓を付す。「芸藩通志」は「今上原村あり」とし、現広島市安佐北区の上原を遺名とするが、「日本地理志料」は「府中田所氏文書、佐東郡原郷注二村名一云二萱原、鳥田、大豆田、道末、尾喰、伊与寺一」とし、西原・東原両村(現広島市安佐南区)をあて、南下安・北下安・東山本・西山本諸村(現同区)にも及ぶとする。「大日本地名辞書」は「今東原、西原、小田、川内、三川の諸村なるべし」とする。「広島県史」も鎌倉中期の沙弥某譲状(田所文書)に「原郷」が記されるとし、東原・西原を原郷の遺名とする。ただし中世には原郷は佐東郡であるから郡域に変化があったことが考えられる。なお同書は福田・馬木(現広島市東区)に原の地名が多いので、この方面に求める説もあるとする(「幡良郷」『広島県の地名』)。
「取帳」
─「検注帳」。検注使が所領の検注の結果を書き注した帳簿。耕地一筆ごとに所在地・面積・租税量・名請人の名を記す。地鑑帳とも。古代には検田帳と称した(『古文書古記録語辞典』)。
*「原郷」内の名田の二項目に、「地頭押領博打に依る」とあります。博打の形に土地が押領された事例を初めて見ました。地頭の押領といえば、出挙・利銭などの貸借関係、あるいは経済外強制(暴力)によって行われるものと思っていましたが、まさか賭け事がきっかけとなって押領が始まるとは思ってもみませんでした。
ちなみに、『御成敗式目』の追加法には、博奕に関する条文がいくつもあります。博打が相当に横行していたのでしょう。まず、検断法54条には、「一 以田地所領、為双六賭事」(田地所領をもつて、双六の賭となす事」とあります(『中世政治社会思想』上、P67)。おそらくこの条文は、御家人どうしの博打禁制を規定した条文なのでしょうが、賭けの対象となった土地は、幕府に没収されたそうです。
次に、追加法290条には「一 博奕輩事」という条文(建長5年(1253)10月1日、前掲書、P73)があります。解釈が難しいのですが、博奕禁制に違反した場合、その当人自身を召し捕り、妻子・所従を連座させてはならなかったようです。また、博打の形だと思いますが、田畠・資財・雑具を取り上げてはならないと規定されています。
最後に、追加法707条では、侍身分以外の一般庶民の場合、2度目までは指を切られ、3度目は伊豆大島へ流罪になると規定されています(乾元2年(1303)6月12日、前掲書、P85)。
【追記】
グダグタと不確かなことを書きましたが、博奕については、網野善彦「博奕」(『中世の罪と罰』東京大学出版会、1983)という研究があることを思い出しました。正確な情報は、この研究をご覧ください。