周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 6 ─日本の古代4─

  大同三年(八〇八)十一月四日条

         (森田悌日本後紀(中)』巻十七、講談社学術文庫、2006)

 

 ◯十一月辛巳、(中略)是夜、有盗、入内蔵寮府、為人所一レ囲、時属

  大嘗、恐其自殺、遣使告喩、投昏出去、(後略)

 

 「書き下し文」

 ◯十一月辛巳、(中略)是の夜、盗有り、内蔵寮の府に入りて、人の囲む所と為る。

  時大嘗に属り、其の自殺するを恐れ、使を遣して告諭せしむ。昏に投りて出去す。

 

*書き下し文は、鈴木英鷹「『日本文徳天皇実録』にみる平安時代初期の医療福祉」(『人間科学部研究年報』14、2012・12、http://www.lib.tezuka-gu.ac.jp/kiyo/mokuji/n14.html)を引用しました。

 

 「解釈」

 本日夜、盗人が内蔵寮の倉庫へ入った。包囲したが、大嘗祭が間近なので、盗人が自殺し穢れとなるのを恐れ、使いを遣わして告諭して、夕暮れに至り逃亡させた。

 

*解釈は前掲森田悌日本後紀』の解釈をそのまま引用しました。

 

*『日本後紀』─勅撰の歴史書で六国史の一つ。藤原緒嗣ら撰。40巻。840(承和7)成立。792─833(延暦11─天長10)の編年史で、平安初期の根本史料。現存は10巻のみ(『新版 角川日本史辞典』)。

 

 「注釈」

 単純な記事ですが、追い込まれた盗人には、自殺する可能性があったようです。今回の場合、盗人を捕らえようとした役人たちは、盗人が自殺することを恐れただけなので、実際に自殺を遂げたわけではありません。だから、盗人の思考を推測することに意味はないのですが、そうであるがゆえに、役人たちが何を考えていたのかが際立ってきます。少なくとも役人たちの頭の中では、「捕縛行為」と「自殺の可能性」が、因果関係で結びつけられていたことがわかります。

 では、なぜ「捕縛行為」と「自殺の可能性」が結びつくのでしょうか。戸川点氏の研究(『平安時代の死刑』吉川弘文館、2015)によると、平安時代では、盗犯は死刑に処されることがあったそうなのです。この盗人は、強盗だったのか窃盗だったのかはっきりしませんが、「盗人は『捕縛されて死刑になるくらいなら、自殺したほうがましだ』と考えているはずだ」、と役人たちは推測したのではないでしょうか。おそらく、同様の事件がこれまでにもあったのでしょう。

 つまり、こうした事件の積み重ねによって、「捕縛、あるいは死刑から逃れるために、犯人は自ら命を断つ可能性がある」という経験則が形成されてきた、と言えそうです。「追い込まれた犯人が自殺する」という単純な事実認識に、さまざまな意味や要因、背景を想定して複雑にしていくのは、いつでも生き残った人間のほうです。そして、こうした情報が伝わり広まることによって、似たような状況に追い込まれた人間が、同じ意図で同じ振る舞いをすることになるのではないでしょうか。

 前回の長屋王の記事でも書きましたが、死刑の予期が自死の要因の一つになり得たと考えられそうです。ただ、これも前回同様、どのようにして「他人の手で殺されるよりは、自殺したほうがましだ」という思考が生まれてきたのか、という点は謎のままです。「死刑」も「自死」も結果として同じ「死」なのですが、それでも「自死」を選ぶ理由がよくわからないのです。

 一つだけ考えられそうなのは、「死刑」の場合、「死」に至るプロセスが、「自死」よりも苦難を伴うということです。拘禁・尋問・処刑、場合によっては梟首。その死へのプロセスを知っていれば、苦痛・恐怖といった最小限の困難で死に至ることのできる「自死」のほうが、追い込まれた犯罪者にとっては魅力的だったのかもしれません。