周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 7 ─日本の古代5─

 弘仁元年(八一〇)九月十二日条

         (森田悌日本後紀(中)』巻二十、講談社学術文庫、2006)

 

 ◯己酉、太上天皇大和国添上郡越田村、即聞甲兵遮一レ前、不行、

  中納言藤原朝臣葛野麻呂・左馬頭藤原朝臣眞雄等、先未然固諌、猶

  不納、催駕発進焉、天皇遂知勢蹙、乃旋宮剃髮入道、藤原朝臣薬子

  自殺、藥子、贈太政大臣種継之女、中納言藤原朝臣繩主之妻也、有三男

  二女、長女太上天皇太子時、以選入宮、其後薬子以東宮宣旨、出

  入臥内天皇私焉、皇統弥照天皇婬之傷一レ義、即令駈逐天皇之嗣

  位、徴為尚侍、巧求愛媚、恩寵隆渥、所言之事、無聴容、百司

  衆務、吐納自由、威福之盛、熏灼四方、属倉卒之際、与天皇輦、

  知衆悪之帰一レ己、遂仰薬而死、

 

 「書き下し文」

 ◯己酉、太上天皇大和国添上郡越田村に至る、即ち甲兵の前を遮るを聞き、行く所を

  知らず、中納言藤原朝臣葛野麻呂・左馬頭藤原朝臣眞雄等、未然に先んじ固く諌む

  と雖も、猶ほ納れず、駕を催し発進す、天皇遂に勢蹙まるを知り、乃ち宮に旋り剃

  髪入道し、藤原朝臣薬子自殺す、薬子、贈太政大臣種継の女、中納言藤原朝臣繩主

  の妻なり、三男二女有り、長女太上天皇太子たる時、選を以て宮に入る、其の後薬

  子東宮宣旨を以て、臥内に出入る、天皇私す、皇統弥照天皇婬の義を傷むるを慮

  り、即ち駈逐せしむ、天皇の位を継ぐに、徴して尚侍と為し、巧みに愛媚を求め、

  恩寵隆渥、言ふ所の事、聴容せざる無し、百司の衆務、吐納を自由にし、威福の盛

  んなり、四方を熏灼し、倉卒の際に属し、天皇と輦を同じうす、衆悪の己に帰する

  を知り、遂に薬を仰ぎて死す、

 

*書き下し文については、よくわからないところが多いです。

 

 「解釈」(前掲森田悌日本後紀(中)』より引用)

 ◯己酉 平城太上天皇大和国添上郡奈良市北之庄町のあたり)まで来たが、そこで武装した兵士が前進を阻んでいることを聞いて進めなくなった。中納言藤原朝臣葛野麻呂と左馬頭藤原朝臣真雄らが事を起こす前に強く諌めたが、それに従わず、輿に乗り発進したのであった。太上天皇はここで自らの勢いの挫けたことを知り、平城宮へ戻り髪を剃って僧体となり、藤原朝臣薬子は自殺した。

 薬子は、贈太政大臣種継の娘で、中納言藤原朝臣縄主の妻であり、三男二女を生んでいる。長女は太上天皇が皇太子であったとき、選ばれてその配偶となった。その後、薬子は東宮宣旨となり、太上天皇の寝所に出入りして通じるようになった。桓武天皇は薬子の振る舞いが義に背くと考えて、宮中から追放した。しかし、平城天皇が即位すると、薬子を召して尚侍に任じ、薬子は巧みに天皇の愛寵を求め、恩寵は盛んになり、その言うところはすべて聞き入れられた。百司の政務や天皇への取次を勝手に行い、人を脅し手なずけ、威力を盛んにした。太上天皇がにわかに事を起こして東国に向かうと、輿を同じくした。多くの人の憎しみが自分に由来することを知り、ついに薬を仰いで自殺したのであった。

 

*「薬子の変」─平安初期、嵯峨天皇平城上皇および側近との構想。平城上皇は嵯峨

        天皇に譲位後、寵愛する藤原薬子とその兄仲成ら多数の公卿・官人を

        率いて平城京に居を移し、嵯峨天皇の朝政に干渉して「二所朝庭(朝

        廷)」とよばれる対立をひきおこした。810(弘仁1)上皇重祚

        をはかり挙兵を企てたが、坂上田村麻呂の率いる朝廷軍に遮られた。

        上皇平城京に帰り出家、また仲成は射殺、薬子は自殺し、事変は3

        日で決着した(『新版 角川日本史辞典』)。

 

 

 「注釈」

 前回に続き、『日本後紀』から事例を紹介していきます。そもそも『日本後紀』は歴史書、つまり編纂物なので、記事の描写に編纂者の見えざる意図が反映されている可能性はあります。そういう意味で言えば、自死の要因を語った「知衆悪之帰一レ己」という記載は、史実としての薬子の語りではなく、伝聞情報や当時の常識から生まれた編纂者の想定によって記されたものだと考えられます。したがって、この記述の責任を最終的に負わせるとすれば、それは編者としなければならず、編者は薬子が自殺した理由を「知衆悪之帰一レ己」と考えていたことになります。

 では、「知衆悪之帰一レ己」をどのように解釈すればよいのでしょうか。前に「解釈」で示したように、「多くの人の憎しみが自分に由来することを知り」でよいのでしょうが、「帰」するという言葉は、「結局ある一つのところに落ち着く。最後にはそこへ寄り集まってくる。」(『日本国語大辞典』)という意味です。大した違いはないかもしれませんが、私は「多くの人々の憎しみが自分に集まっていることを知り」と解釈しておきます。繰り返しになりますが、この記事からは、「多くの人々の憎悪感情が自分に向けられていることを、薬子が知った」という原因と、「毒薬を飲んで自殺した」という結果を、編者が結びつけたということがわかるだけです。

 言外に想定される要因を、読み取ろうと思えば読み取れます。たとえば、政変の挫折や情夫平城上皇の出家、それに伴った怒り、悲しみ、絶望といった感情の生起を、自殺の要因とすることもできそうです。ですが、編者は「憎悪の感情が薬子自身に集まっている」ことを、自死の要因として記しているだけです。憎悪感情が薬子に向けられたことは、おそらく史実なのでしょうが、こうした事態に対する薬子の感情的反応はわかりません。憎悪の対象となったことによる恐怖だったのか、なぜ恨まれなければならないのかという反発だったのか、このような事態を招いた責任感・悔恨だったのか。「自分が憎まれている」という事態に対して、恐怖、反発、悔恨のどれを妥当な感情として採用するかは、もはや解釈の問題でしかなく、真実などは永遠にわからないのでしょう。せめて一言、編者の立場で心理描写を記していてくれれば、同時代人の感情だけは明らかにすることができたのですが、結局わかったことと言えば、「多くの人間の憎悪感情が自分に向けられると、自殺する可能性が生じる」と平安時代には考えられていた、ということだけです。