周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 9 ─日本の古代7─

  永延二年(九八八)六月十七日条

         『日本紀略』(『国史大系』第五巻、『大日本史料』第二編之一)

 

 十七日、壬申、左獄被禁固、強盗首保輔依自害疵死去了、是右馬權頭藤原

  致忠三男也、件致忠、日来候左衛門弓場、昨日免、

 

 「書き下し文」

 十七日、壬申、左獄に禁固せらる、強盗の首保輔自害の疵により死去し了んぬ。是れ

  右馬権頭藤原致忠三男なり、件の致忠、日来左衛門弓場に候ふ、昨日免ず、

 

 「解釈」

 十七日、壬申。強盗の首領である藤原保輔は左獄に禁獄され、自害の傷によって死んだ。この男は、右馬権頭藤原致忠の三男である。この致忠は、ここ数日、左衛門府の弓場に祗候していた。昨日、放免した。

 

 「注釈」

日本紀略」─神代から後一条天皇までの歴史書。著者不詳。34巻。平安後期成立。

       前半は六国史からの抄録。後半は公私の日記にもとづき編集した。六国

       史の欠を補い、かつ平安中期の歴史を知る重要史料(『新版 角川日本

       史辞典』)。

「保輔」─(〜九八八)平安中期に本朝第一の武略を以て知られた大盗賊。南家武智麻

     呂流。皇嗣問題から死後に怨霊となったといわれる元方の孫。右京大夫致忠

     の三男。藤原道長の家司の一人であり、和泉式部の夫でもあった保昌の弟。

     正五位下。右兵衛尉、右馬助、右京亮等を歴任。永延二年六月十七日獄中に

     て死去。捕縛された時に自殺を図り、切腹ののちに腸を引きずり出した傷が

     原因であるという(『続古事談』五)。寛和元年(九八五)に左大臣源雅信

     邸の大饗で藤原季孝を傷つけた科で罪を問われて以来、藤原景斉・茜是茂ら

     の家を襲い、更に検非違使の源是良を射るなど京中を騒然とさせ、追討の宣

     旨を被ること一五度であったという。姉小路南高倉の保輔の屋敷には落とし

     穴を隠した蔵が建てられ、物売りを招き入れては強奪をほしいままにして、

     生きて出られるものはなかった(『宇治拾遺』一二五)。保輔を袴垂と同一

     視する説は後世の付会。なお、保輔の切腹は本朝最古の実例であり、以降東

     国の武士の間で自殺の手段として切腹が頻繁になった(仲井克己『平安時代

     史事典』下)。

「左衛門弓場」─本来射芸を教習・披露する場であるが、十世紀中・後期以降は勅裁

        (天皇の裁き)の対象となる訴訟や事件の当事者・関係者を拘禁・

        喚問(取り調べ)する場としても利用されていた。そのため獄所の

        場合と同様に看督長が配置され、その警護・管理に当たっていたもの

        と思われる(前田禎彦「看督長見不注進状」(九条家本 『延喜式

        紙背文書) に関する基礎的検討」『人文研究』神奈川大学人文学会

        誌、157、2005・12、http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3580/1/kana-10-18-0004.pdf

 

 

平安時代の大盗賊として有名な藤原保輔の最期を記した記事です。この記事からわかることは、禁獄された後に自害し、その傷がもとで死んだという事実だけです。注釈にも記しましたが、『続古事談』という説話には、もう少し詳しい内容が記されているので、次にそれを示しておきます。

 

 『続古事談』巻第5─45 諸道(『新日本古典文学大系』41、岩波書店

 保輔と云者は、元方の民部卿の孫、致忠朝臣の子也。故国章の三位の家に強盗入にけり。保輔がしわざときこえて、かれが郎等さし申て、ざう物どもあらはれにけり。又、忠信朝臣をいたる事、兵衛尉維時をころさんとする事、みな保輔が所為のよし、郎等、白状によりて、検非違使、所々をうかゞふといへども、からめえず。顕光中納言の家にこもりたるよしきこえて、検非違使并に武芸の者、滝口にいたるまで、かの家をかこみてさぐりもとむるに、中納言の北方、車にのりていでんとするに、うたがひて、くるまをさゝしめず。父致忠には、看督長・下部をつけて、すだれもかけぬ車にのせてまもりけり。此家にもなかりければ、三日のうちにたてまつるべきよし、父致忠が請文をたてまつらしむ。此事によりて、諸衛の官人、弓箭をおひて内裏に候ふ。京中しづかならず。からめてたてまつりたらんもの、勧賞をこなはるへきよし、宣旨くだりけり、父致忠は、左衛門弓ばにくたされけり。保輔、せめにたえず、北山花園寺にて出家のよしきこえければ、検非違使、はせむかひてたづぬるに、にげにけり。きりすてたる髪、狩衣、指貫をとりてかへりにけり。其後、保輔法師、ひそかに従者左大将の随身忠延と云ふもののもとへきたりけるを、はかりごとをまはしてからめてけり。保輔、にぐるにあたはず、かたなをぬきて腹をさしきりて、はらはたをひきいでたりけり。検非違使、このよし申て、禁獄せられにけり。此賞に、忠延、左馬医師になされけり。保輔、次の日、獄中にて死にけり。獄よりとりいでてゐてゆくとて葬礼して、念仏僧ぐしてゆきければ、公家とがめ仰られて、検非違使、過状たてまつりけるとぞ。

 

 「解釈」

 藤原保輔という者は、民部卿藤原元方の孫で、致忠朝臣の子である。故藤原国章の三位の家に強盗が入った。保輔の仕業と噂され、その郎等が白状して、盗品が発見された。また、源忠良朝臣を弓で射たことも、兵衛尉平維時を殺そうとしたことも、すべて保輔の仕業であると、郎等が白状したことによって、検非違使がさまざまな場所を捜索したが、捕らえることができなかった。顕光中納言の家に籠居していると噂され、検非違使ならびに武芸に秀でた者、滝口の武士にいたるまで、顕光の家を取り囲んで、捜索したところ、中納言の北の方が車に乗って出かけようとしていたので、車中に保輔がいるのではと疑って、車を遮って止めた。父の右馬権頭致忠には看督長と下部(放免)を見張りにつけて、簾も掛けない車に乗せて監視した。この家にもいなかったので、三日以内に保輔の身柄を差し出し申し上げると、父致忠の請文を差し出し申し上げさせた。このことによって、六衛府の武官たちが弓箭を背負って内裏に祗候した。京中は騒々しかった。捕らえ申し上げた者に、褒賞を与えるという宣旨が下された。父致忠は左衛門府の弓場に下された。保輔は追討の厳しさと父への処罰の厳しさに耐えられず、北山花園寺で出家したと噂されたので、検非違使は急ぎ駆けつけて捜索したが逃げてしまった。切り捨てた髪や狩衣、指貫を取って帰った。その後保輔法師は、密かに従者であった、左大将藤原朝光の随身の忠延という者のところへ来ていたのを、謀を巡らして捕縛した。保輔は逃げることができず、刀を抜いて腹を刺し切り、腸を引っ張り出した。検非違使はこの次第を申し上げて、保輔は禁獄されてしまった。この恩賞として、忠延は左馬寮の馬医になされた。保輔は翌日、獄中で死んだ。(父致忠?は)獄中より遺体を取り出し連れて行こうと思って、葬儀を行い、念仏僧を連れていった。だから、朝廷は、罪人に対して過剰な礼法をとったことを咎めて、検非違使は詫び状を差し出し申し上げたということだ。

 

 「注釈」(以下、とくに断らない限り、脚注をそのまま引用しています)

続古事談」─鎌倉前期の説話集。著者不詳。6巻(現存本は第3巻欠)。1219

       (承久1)成立。『古事談』にならい公家社会の説話を多く伝えるが、

       漢朝編をもうけ政道論・治世論にも及ぶ。一部に散逸した公家日記を引

       用して貴重(『新版 角川日本史辞典』)。

「忠信朝臣」─諸本「忠信」だが、「忠良」が正しい。→人名一覧。但し保輔が「射

       た」史実は未詳。永観三年(九八五)右衛門尉で検非違使の時、保輔と

       その兄斉明を追捕したが(小右記)、その恨みに本件の淵源があるか

       (土田直鎮)。

       諸本は「忠信」だが、「忠良」が正しい。『続古事談』には藤原保輔

       捕の関連記事に登場する足羽忠信との行動があるか。忠良は文徳源氏

       仲連男。永観3年(985)に右衛門尉で検非違使であった時、保輔と

       その兄斉明を追捕。下総守を歴任(「人名一覧」『続古事談』)。

「顕光中納言」─藤原。権中納言顕光・右府〈顕光〉・左大臣・親・広幡のおとゞ・右

        大臣顕光・顕光左大臣・顕光中納言。944─1021。兼通嫡男。

        母は昭子女王。異母弟の朝光に官位は常に超越される。愚人の評価が

        あった。最終官位は従一位左大臣。娘が嫁した小一条院敦明が道長

        策謀で春宮を辞すなど、不如意が多く、道長一族に祟る「悪霊左府」

        と呼ばれる。広幡は邸第の呼称(「人名一覧」『続古事談』)

中納言の北の方」─顕光は当時村上天皇女盛子を妻としていた。

「諸衛の官人」─六衛府(近衛・衛門・兵衛)の武官達。この様は検非違使の追捕を超

        えた大策(おおあなぐり/大捜索のこと)に相当。弓箭を帯し、早朝

        卯一点に建礼門に集合する(北山抄四)。

「北山花園寺」─「今暁保輔朝臣権北花園寺剃頭出家」(小右記・十四日条)。近くを

        紙屋川が流れている「西京花園寺」(小右記・長和四年六月二十五日

        条)ならば、「北山」の呼称(今西祐一郎)に齟齬はない。

「かたなをぬきて…」─小右記に「自害」記事なく、切腹の詳細は本書のみ所伝。

 

*注釈でも書きましたが、仲井克己(『平安時代史事典』下)によると、どうやらこの記事が、日本最古の切腹事例になるそうです。脚色もされているのでしょうが、腸を引っ張り出すなど、かなり強烈な描写になっています。

 さて、この記事もどこまで信用してよいのかわかりませんが、自害に至るまでの状況をまとめてみると、次のようになります。

 藤原保輔は、強盗・障害・殺人未遂などの罪を犯し、検非違使から追われるようになりました。ところが、その追討を逃れ続けていたため、捕らえたものに褒賞を与えるという宣旨が下され、保輔の父致忠も左衛門府の弓場に拘禁されることになったのです。

 こうした追討の厳しさや父への処罰の厳しさに耐え切れなくなった保輔は、まず花園寺で出家します。その後も捜索を掻い潜って逃亡するのですが、計略にはまってとうとう捕らえられます。保輔は逃げることができず、刀を抜いて腹を刺し切り、腸を引っ張り出したのですが、どうやらこの傷がもとで死んでしまったようです。

 さて、これまでの記事で見られなかった新たな事態に、捕縛前の出家があります。逃走のために僧衣に身をやつしたのか、浄土思想の影響を受けた臨終出家を意識したのか、その両方だったのか、判断に苦しみますが、もう逃げ切れない、そして捕まれば処刑される、という予期が頭を過ぎったのかもしれません。