周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

田所文書2 その6(完)

    二 沙弥某譲状 その6

 

  ■■■   同舎弟藤五郎男

  ■■   同子一人 逆犬丸

                安南郡

      清次郎男 〈父清三郎男、牛田村弥冨名内崩田七反半下作人、是包父光包所當米代仁

               弁之畢、〉

      石王丸 〈母者石井入道殿下人乙女也、仍自襁褓中二十余歳仕之

             也、〉

      山田中五男 〈助清大政所殿下人武内源八包則引之者也、祖父者近清父者近道

                也、〉

      弥中次男 父者澤行、祖父者行包也、

                高宮郡

      北庄福田入道 〈子細見内部庄地頭代東条三津小三⬜︎爲方状等、彼奴父惣追

                 入道本者令居住濱邊末屋敷多年召仕之畢、〉

      同子二郎男

      又同子童

      宗大郎入道

      同大郎子宗源次男

      同次郎子又大郎男 人勾引守護取之云々、

                         (珂)

      秦三郎男 〈子細見父則包引文并本主人周防⬜︎玖河庄一方公文石崎大郎入道蓮聖⬜︎

               人状等、〉

                            (被ヵ)

  ■   同子勢至丸 〈開田兵衛尉与渡与畢、o但件奴任自由不⬜︎召仕云々、然者可[  〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      同増田腹男子四人在之[

  二人■■■

              (召仕之ヵ)

      松王冠者 於童[

            (見ヵ)

      禰宜男 子細具父矢次郎掾重近引文

                         (依ヵ)

      西条o五郎子 〈死去畢、子者見存也、源太郎男⬜︎腹子也、〉

      同舎弟

      温科平六入道 子細見即引文

      濱久祖法師丸 〈子細見父伴大夫助武引文、祖父者武宗也、〉

                         (頭)

      弥中三重氏 〈子細o即状并母藤四郎内侍寺町地⬜︎⬜︎右衛門尉清義代郡戸治部

                入道〈于時俗名光成〉光眞状、〉

      北濱二郎冠者 〈子細見于父梶取宗四郎大夫末吉引文、〉

      濱橋本又王丸 子細父梶取夜叉太郎引文具者也、

      伴太国守孫 〈件祖父伴二郎男者父国守引文也、而云祖父父死去之間、件童

                付母迩保嶋令居住者也、仍弘安十一年改正應春之比、遣国造

                子男参勤之由、令下知之間、雖幼少参勤

                之旨、母等令申云々、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      南濱中小追清六末門子息等二人 〈云二人事屋敷子細、末門引文具

                           者也、〉

      腸權三郎男 〈云其身、云居住屋敷、父利恒〈本名清包〉引文明白也、〉

      同子二人 〈弥法師丸甲法師丸〉

        資俊分

      南濱乙若丸 〈件奴祖父宗門引進己身於銭五貫文代畢、其上者召仕彼子孫之条

                勿論也、而宗門死去之後、宗遠今俄爲地頭仕部之由令申之間、

                所詮可返宗門身直銭十貫〈本五貫〉文之由令下知之間、

                引進件乙若丸者也、子息等依其數、任傍例一人子

                於地頭方之上者、非沙汰之限之由、令問答畢、〉

      大崎中五郎 〈子細見父中三郎大夫安高引文、安高者中大夫安遠子也、〉

                       安南郡

      佐乃々江法師 〈今者江二郎云々、令住荒山庄者也、子細見于守護在國司

                 兼松崎下司代内藤左衛門入道盛仏〈俗名保廉〉同代官源三郎入道

                 状、〉

      同男子在之、

     安北郡

      田門庄矢口重員 〈於童召仕之、其名靏王丸、父者貞員、祖父者佐西大檢校

                  貞包貞延子也、而地頭代馬入道阿仏押召仕之間、訴申事由於

                  六波羅殿賜之畢、〉

    ■■■■同大郎子 〈於童召仕之畢、義王丸云々、今者又五郎是也、〉

    ■■■■同男子二人在之云々、

      同重員次男童 〈地頭代譲渡押仕之間、依申子細於六波羅殿去状之間、

                 下預御下知畢、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

     佐東郡

      中洲別符友末 〈父者紀五郎大夫友道也、重代相傳下人也、子細友末起請文并日吉

                 大宮預所周防律師状次第沙汰證文具者也、〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目半裏花押)

 (後筆)

 「此間不知」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目半裏花押)

 (後筆)

 「人々に譲分といゝ、漏于此注文物等といゝ、可資賢分之状如件、

    (1289)

    正應貳年正月廿三日

                      沙弥(花押)」

       ○以上、一巻

   おわり

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「江田村」─現安芸郡江田島町のことか。

「牛田村」─現東区牛田。奈良時代から鎌倉時代の初頭にかけては奈良西大寺領の牛田

      庄で、宝亀十一年(780)十二月二十五日の西大寺資財流記帳(西大寺

      文書)に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻」とみえ、建久二年(一一九一)五

      月十九日付西大寺所領庄園注進状案(同文書)に「安芸郡牛田庄 墾田七

      十九町」とある。近世牛田村の田畠が約八十町であるから、右の墾田は未

      開原野を含むものであろう。正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某

      譲状(田所文書)によれば、在庁官人田所氏は牛田村に私領田をもち、

      「牛田村弥富名内崩田七反半」と所従清次郎に下作させていたことがわか

      る。

      室町時代は守護武田氏の治下にあった。文亀三年(一五〇三)に武田氏の

      氏神を神田八幡宮として勧請したといわれ(国郡志下調書出帳)、天文二

      年(一五三三)には武田氏家臣豊島氏が真宗道場(現安楽寺)を開いたと

      いう(芸藩通志)。武田氏滅亡後は大内氏が領したが、のちの大内義隆

      毛利隆元に「大牛田」「小牛田」それぞれ一五〇貫の地を預けた(年未詳

      七月十五日付「内藤隆時書状」毛利家文書)弘治三年(一五五七)十一月

      十三日の毛利隆元宛行状(「閥閲録」所収宍戸藤兵衛家文書)に「牛田舟

      方給之内拾貫文地之事、為給地遣置候、全可知行候、水夫用之時者、涯分

      申付可調之由肝要候」とあるように、毛利氏は牛田に「舟方給」を設け、

      飯田・宍戸・羽仁・福井ら水軍勢力の諸氏に給地を与えた。毛利氏が牛田

      を水軍の拠点の一つに選んだのは、ここが広島湾頭を扼する戦略的要衝で

      あったことのほかに、当地にあった真宗寺院東林坊(現中区の光円寺)が

      川の内水軍の有力な一員であったように水軍勢力の拠点としての伝統があ

      ったからでもあろう。なお戦国期の牛田は矢賀・戸坂などと同様、佐東郡

      とされることがあった(大永七年四月二十四日付大内義興宛行状「閥閲

      録」所収白井友之進家文書)(『広島県の地名』)。

「荒山庄」─世能荒山庄か。現安芸区瀬野川町上瀬野・同下瀬野・同中野のほぼ全域に

      わたる荘園。

      承久三年(一二二一)承久の乱の功で浅沼次郎(阿曾沼親綱か)が地頭職

      に任じられたが、これ以前の地頭は安芸国守護宗孝親だったようである。

      阿曾沼氏は家臣野村氏を代官として派遣したが、同年十月には早くもその

      野村氏が非法を働いたとして官使から訴えられている(承久三年十月八日

      付「清原宣景申状」清原家文書)。ところで、この時地頭の権限の及ぶ範

      囲は「荒山村・阿土村・下世能村」の三ヵ村と地頭名の久武名とされてお

      り、阿土村(のちの熊野跡村)が荘域に入ったこと、世能村が上下に分か

      れたことなどが知られる。ただし、建久七年阿土熊野保が成立しているの

      で(健治三年のものと思われる「小槻有家申状」壬生家文書)、阿土村の

      一部が当庄に属したのかもしれない。

      地頭代野村氏の押妨は鎌倉時代を通じてやまず(嘉禎四年九月日付「伊都

      岐島社神官等重解」新出厳島文書、文永十年八月二十日付「関東御教書」

      壬生家文書など)、建武四年(一三三七)三月三日付の光厳上皇院宣并壬

      生官務家知行書立(壬生家文書)を最後に、小槻隆職の子孫壬生家の史料

      から世能荒山庄の名は消える。折しも南北朝の争乱を機に、阿曾沼氏は下

      野国から当庄に本拠を移して安芸有数の国人領主へ成長、その過程で当庄

      は阿曾沼氏の実質的所領となっていったものと思われる(『広島県の地

      名』)。

「中洲」─現安佐南区安古市町中須高宮郡中筋古市村の北に位置し、村の中央を安

     川、東端を古川がともに南流する。古く川中洲の地で、小瀬・来船・蔦島・

     黒川などの地名は往時の地勢を示す(安佐郡志)。沼田郡に属し、安川の上

     流が大町村、古川の上流が緑井村、西隣は北下安村、東は古川を越えて温井

     村に接する。雲石道が古川沿いに南北に通る。地勢上水害に見舞われること

     が多かったが、安川を古川へ直結する小瀬放水路が昭和三十年(一九五五)

     に完成、安川の中洲より下流は廃川敷となった。

     嘉禎四年(一二三八)四月十七日付の伊都岐島社回廊員数注進状案(新出厳

     島文書)の「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」のうち「未被立分」に「中

     洲別府」とみえる。正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田

     所文書)は、安芸国の在庁官人田所氏の譲状で、前半は得分や所領を、後半

     は所従などを書き上げているが、そのなかに「一所田畠一反大内田大畠一

     反 中洲作人不定即進止也」「中洲別符友末 父者紀五郎大夫友道也、重代

     相傳下人也、子細友末起請文并日吉大宮預所周防律師状次第沙汰證文具者

     也」とみえ、中洲別符の在地名を関する友末は、田所氏の譲与財産へ所従と

     して記されるような存在であった。応永四年(一三九七)六月日付の厳島

     領注進状(巻子本厳島文書)では、佐東郡神領などのなかに中洲別符がみ

     えるが、宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤原教親申状案(同文

     書)には、武田伊豆守(信繁)押領分のなかに記されている。

     天文十年(一五四一)八月十一日付で大内氏が吉原弥七へ宛てた中洲内打渡

     坪付(「譜録」所収吉原市兵衛家文書)には、田畠二十一筆の分銭二十貫五

     十文目が記され、そのなかに「こせ」「トキ」を冠する人名が三人みられ

     る。この所領の知行を認められることは、銀山城番を勤める責任を伴うもの

     であった(閥閲録)。吉原弥七と同様に銀山城番を任じられた大谷善左衛門

     尉は、同年九月十一日に中洲のうち十八貫目品河左馬允先知行の跡を宛行わ

     れた(防長風土注進案)。同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注

     文(毛利家文書)のなかには「中洲」とあり、大内氏の下とはいえ、毛利氏

     の支配が及んできたことを示している。永禄十三年(一五七〇)九月八日の

     毛利元就宛行状(「藩中諸家古文書纂」岩国徴古館蔵)では「中須」と記さ

     れ、その後中洲と混用される時期が続く(『広島県の地名』)。