周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 11 ─日本の古代8─

  寛弘二年(一〇〇五)八月五日条 (『大日本古記録 小右記』2─127)

 

肥後守爲愷爲郎等良材殺害事、

         (橘)           〔郎〕〔小〕

 五日、辛巳、肥後守爲愷朝臣去月八日未剋爲良等少槻良材殺害

  〔良〕〔材脱ヵ〕

  艮自殺云々、希有事也、良材者爲愷妻近親云々、件事自前司兼忠朝臣

           (滋野)              (小槻)

  送後家許、又大外記善言朝臣云、爲愷後家告送父主計頭忠臣宿祢所者、爲愷

  後家忠臣女云々、(後略)

 

 「書き下し文」

肥後守為愷郎等良材のために殺害せらるる事、

 五日、辛巳、肥後守為愷朝臣去月八日未の剋、郎等小槻良材のために殺害せられる、

  良材自殺すと云々、希有の事なり、良材は為愷の妻の近親と云々、件の事前司兼忠

  朝臣の許より後家の許に云ひ送る、又大外記善言朝臣云く、為愷の後家父主計頭忠

  臣宿祢の所に告げ送るてへり、為愷の後家は忠臣の女と云々、

 

*書き下し文は、松原輝美「小右記訓読稿 第三編(続)」(『高松大学紀要』29、

 1998・3、http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/journal.html)を参照しました。

 

 「解釈」

肥後守橘為愷が、郎等の小槻良材に殺害されたこと。」

 五日、辛巳。「肥後守(橘)為愷朝臣が、去る七月八日未の刻に、郎等の小槻良材に殺害された。良材は自殺した」ということだ。とんでもないことである。「良材は為愷の妻の近親者である」ということだ。この件は、肥後前司(平)兼忠朝臣のもとから後家のもとに言い送った。また大外記(滋野)善言朝臣が言ったことには、「為愷の後家はこの件を、父の主計頭(小槻)忠臣宿禰のところに告げ送りました」ということだ。「為愷の後家は忠臣の娘です」ということだ。

 

 

*『小右記』─『小野宮右大臣記』『野府記』『小記』『続水心記』などとも。右大臣

 藤原実資の日記。977─1040(貞元2─長久1)ころの執筆が確認される。藤

 原道長の台頭から死去までと、その後の頼通時代の摂関政治の様相と社会状況を詳細

 に記す第一級の史料。日記の記事を要約して分類した『小記目録』20巻(現存1

 8巻)があり、逸失した本文の内容を知る手がかりとなる(『新版 角川日本史辞

 典』)。

 

 「注釈」

「兼忠」─(?〜一〇一二?)平安中期の軍事貴族。繁盛の子。天元三年(九八〇)七

     月、従五位下で出羽介から秋田城介に転任。その後、上総介に任じた。この

     時、上総国府に赴任した兼忠に会いに陸奥国からやってきた彼の子息余五将

     軍維茂の第一の郎等太郎介が、これを父の敵と知った金忠の小侍男に殺され

     たという筋の話が『今昔』二五ノ四に見える。長和元年(一〇一二)閏十

     月、兼忠の子維良は亡き父の申し置いた二疋を加えて六疋の馬を左大臣藤原

     道長に献じており、兼忠が道長を本主と仰いでいたことが知られ、またおそ

     らく同年の前半ごろに卒去したことが想定される。なお、同時代に光孝平氏

     の兼忠があり、『小右記』寛弘二年(一〇〇五)正月二十日条及び同年八月

     五日条に見える兼忠(肥後前司)は、光孝平氏と思われる(『平安時代史事

     典』下)。

「滋野善言」─(九四七〜?)もと小槻氏。正暦二年(九九一)改姓。文章生より出

       身。永祚元年(989)権少外記、寛弘三年(一〇〇六)大外記とな

       る。時に正五位下。この間、主税頭・播磨権介・安房守等を兼ねる

       (『平安時代史事典』上)。

「小槻忠臣」─(九三三〜一〇〇九)平安中期の下級官人。算博士茂助の一男。母は主

       税頭小槻糸平女。子に官務家小槻氏の基礎を築いた奉親がいた。また女

       に肥後守橘為愷の室となった女性がいたが、為愷は室の近親者である小

       槻良材により殺害されている。主計大属、左右大史、算博士等を歴任。

       主計大属在任中の天徳四年(九六〇)二月、算得業生課試のことを請う

       ている(『西宮記』一四)。長保三年(一〇〇一)には奉親の譲りによ

       り従四位下に叙されている。寛弘六年四月に至り死去。『二中歴』一三

       に載せる算道の能歴者としてその名が見える。なお、小槻氏長者が支配

       する近江国法光寺を修理し、更に山城国北山の地に法音寺を建立したこ

       とが知られる(『平安時代史事典』上)。

 

 

*今回から、古記録に残された記事を紹介していきます。記事の多くは伝聞情報なので、どこまで史実とみなしてよいのか不安はありますが、説話などの文学作品よりは、史実に近いと評価できます。

 さて、この記事はとても簡潔です。事件についてわかるのは、橘為愷が、近親者で郎等の小槻良材に殺害されたことと、小槻良材が自殺したことだけです。記主藤原実資は、この一件を、「希有事也」(とんでもないことである)と評価しています。ではいったい、「何が」とんでもないことだったのでしょうか。

 この五日条には「肥後守爲愷爲郎等良材殺害事」という事書が付けられているので、記主実資の関心事は、橘為愷が郎等小槻良材に殺害されたということだけになりそうです。良材が自殺したことについては、その事実以外の記載はまったくありません。ただ、この殺害事件の要因や真相についても、詳細な記載はないので、おそらく情報がほとんど伝わってこなかったものと考えられます。一方で、情報をもっているが、書き残すほどではない、書き残すことが憚られる、と考えた可能性も捨てられません。実資と為愷、実資と良材の関係性によるのかもしれませんが、いずれにせよ、実資にとっては良材の自殺は、主たる関心事でなかったことは確かなようです。