周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 12 ─日本の古代9─

  長久元年(一〇四〇)四月三十日条 (『増補史料大成七 春記』142頁)

 

 卅日、甲寅、雨降、 一日関白被命云、定任殺人、嫌疑人先日捕之、是成章之郎等

  也、是男筑紫人也、件男依無指事免除云々、痴事也、但定任、殺府老〈某丸〉已

  了、其兄法師又被殺了、是定任所爲也、其府老之第男、又法師之子等是武勇者也、

  共成悪脱去、不知其在所、是若彼等所爲歟、更不可疑他人事也、又後家告言、藏隆

  是彼府老之近親也、定内々有通事歟者、件出家男於獄中自害了云々、獄中不置刀劔

  之類、近来廳之事只依賄賂云々、尤可悲事也云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 三十日、甲寅、雨降る、一日関白命ぜられて云はく、「定任の殺人、嫌疑の人先

  日之を捕ふ、是れ成章の郎等なり、是の男筑紫の人なり、件の男指せる事無きに

  より免除す」と云々、痴事なり、但し定任、府老〈某丸〉を殺すこと已に了んぬ、

  其の兄の法師又殺され了んぬ、是れ定任の為す所なり、其の府老の第の男、又法師

  の子等是れ武勇の者なり、共に悪を成し脱去し、其の在所を知らず、是れ若しくは

  彼等の為す所か、更に他の人を疑ふべからざる事なり。又後家告げて言はく、「蔵

  隆是れ彼の府老の近親なり、定めて内々に通ずる事有るか」てへり、「件の出家の

  男獄中に於いて自害し了んぬ」と云々、「獄中刀釼の類を置かず、近来庁の事只だ

  賄賂に依る」と云々。「尤も悲しむべき事なり」と云々。

 

 「解釈」

 三十日、甲寅、雨が降った。一日に関白がお命じなって言うには、「藤原定任の殺人の容疑者を捕らえた。これは高階成章の郎等である。この男は筑紫の人である。この男には、とりたてていうほどの罪はなかったので、赦した」という。ばかげたことである。ただし、定任は府老(某丸)を以前に殺していた。その兄の法師も殺されていた。この件は定任のしたことである。その府老の邸宅に仕えていた男も、また兄の法師の子らも、武勇の者たちである。一緒に悪事を働いて逃げ去り、その居場所を知らない。定任の殺害は、もしかすると彼らの仕業か。まったく他の人を疑うことができないのである。また、後家が告げて言うには、「蔵隆はあの府老の近親者である。きっと内々に通じることがあったのだろうか」という。「この出家の男は獄中で自害した」という。「獄中では刀剣の類は置かないことになっている。最近の検非違使庁の処置はただ賄賂による」という。「いかにも悲しむべき事態である」という。

 

*『春記』─『資房卿記』『野房記』とも。参議兼東宮権大夫藤原資房の日記。現存年

      次は1026〜54(万寿3〜天喜2)。人物評や世相への批判にとむ摂

      関時代後期の重要史料(『新版 角川日本史辞典』)。

 

*記事の検索には、国際日本文化研究センター公開データベース「摂関期古記録」を利

 用しました(http://db.nichibun.ac.jp/ja/category/heian-diaries.html)。

 

 「注釈」

「関白」─藤原頼通。992〜1074(正暦3〜承保1)平安中期の公卿。通称宇治

     殿。法名蓮花覚のち寂覚。父は道長、母は源雅信の娘倫子。権中納言、権大

     納言を経て1017(寛仁1)内大臣となり、後一条天皇摂政となる。1

     019年に関白となり、後朱雀・後冷泉まで三代の関白をつとめた。父道長

     とならんで藤原氏全盛期を現出したが、後冷泉天皇に入内した娘寛子に皇子

     がなく、外戚関係のない後三条天皇即位で苦境にたつ。のち、子の師実に譲

     る約束で弟教通に関白を渡したが生前には実現せず、失意のうちに1072

     年(延久4)に出家した。平等院鳳凰堂を建立(『新版 角川日本史辞

     典』)。

「定任」─藤原定任。(?〜一〇四〇)大納言済時孫。伊予守為任の一男。母は肥後守

     源為親女。室に高階道順女がおり、定季・為季を儲ける。長久元年四月、父

     為任法師の四条宅を訪ね、その帰宅途中、何者かに射殺される。時に従五位

     下前肥後守であった。事件の真相については判然としないものの、肥後前後

     司の紛争ともいい、あるいは同僚の子との不仲によるものともいわれた。藤

     原資房はこの事件について、「王法之澆薄也、嗟乎悲哉、(中略)是乱世之

     初也」との感慨を述べている。のちの藤原盛隆なる人物が召喚されたが逃亡

     したため、結局要領を得ぬままとなった。『御堂』には長和年中(一〇一

     二〜一七)、蔵人所雑色として一両度登場している(『平安時代史事典』

     下)。

「成章」─高階成章。(九九〇〜一〇五八)平安中期の官人。春宮亮成遠の四男。母に

     ついて『補任』天喜三年(一〇五五)条には、「修理大夫業平女」と記す

     が、成章の外祖父としてふさわしい時代の修理大夫に業平という人物はいな

     いことから、母は平親信女とする見解も出されている。寛仁元年(一〇一

     七)叙爵。紀伊守、春宮(敦良親王、後の後朱雀天皇)大進、主殿頭、蔵

     人、阿波守、伊予守等を歴任。肥後守在任中の長元元年(一〇二八)、成章

     の郎等と近江守源済政の郎等が合戦を行い、「見物道俗男女等不

     幾千万云々、事及天聴」といわれた。天喜二年太宰大弐に任ぜられ、

     翌年従三位に叙される。康平元年正月、任地において薨去。時に正三位であ

     った。欲大弐と号されたという(『平安時代史事典』下)。

「府老」─未詳。

「蔵隆」─藤原正高。藤原則高(則隆)の子。容疑者の一人とされた藤原隆家の郎等

     (『春記』長久元年(一〇四〇)四月十三、十七、二十一、二十七日条参

     照)。

 

 

*肥後前司藤原定任が何者かに殺害されたのは、長久元年(1040)四月十日夜のことでした。この事件に関する記事は、『春記』に立て続けに書き残されていきます(四月十一日・十二日・十三日・十五日・十七日・二十一日・二十七日・三十日、五月二日・二十日、十一月五日)。事件の首謀者や犯人について、さまざまな憶測が飛び交っていたようですが、四月三十日になって、やっと容疑者が捕らえられます。捕縛されたのは高階成章の郎等でしたが、この人物は獄中で自害してしまいます。

 ところで、この容疑者ですが、関白藤原頼通の発言によると、それほどの罪がないという理由で、赦免されています。にもかかわらず、なぜ獄中で自殺したのでしょうか。気になるのは、「獄中不置刀劔之類、近来廳之事只依賄賂云々」という表現です。今回のように容疑者が自殺する可能性もあれば、武器を持って抵抗することもあるでしょうから、獄中に刀剣類を置かない(あるいは持ち込ませない)というのは、当然の処置だったのでしょう。ところが、検非違使庁の役人は賄賂を受け取って、獄中に刀を置いたという噂が流れているのです。ひょっとすると、事実の露見を恐れた首謀者が、口封じのため、罪をなすりつけるため、役人に賄賂を渡して容疑者を殺害させ、自害として報告させたのかもしれません。あるいは、獄中に刀を置いて自害を強要したのかもしれません。

 このように想像をたくましくすることもできそうですが、何の根拠もないのでこれ以上の推測は止めておきます。ただ、賄賂によって歪められることがあったとしても、「獄中刀剣の類を置かず」という規則が存在する以上、当時の役人たちは、「追い詰められた容疑者に武器を持たせると何をするかわからない」と認識していたことだけはわかります。そして、その行為の一つに自害があることも想定していたと考えられます。