周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 14 ─日本の古代10─

【史料1】

 「垂仁天皇九十年二月一日」『日本書紀』巻6

          (『新編日本古典文学全集』2─335頁、小学館、1994)

 

 九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也。

 九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。

 冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。

 明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、(中略)今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。

 

 「書き下し文」

 九十年の春二月庚子の朔に、天皇、田道間守に命(みことおほ)せて常世国に遣し、非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めしめたまふ。香菓、此には箇倶能未と云ふ。今し橘と謂ふは是なり、

 九十九年の秋七月戊午の朔に、天皇、纏向宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年百四十歳なり、

 冬十二月の希望の朔にして壬子に、菅原伏見陵に葬(はぶ)りまつる。

 明年の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至(かへりいた)れり。(中略)今し天皇既に崩りまし、復命(かへりことまを)すこと得ず。臣生けりと雖も、亦何の益かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵に向ひて叫哭(おらびな)きて、自ら死(まか)れり。群臣(まへつきみたち)、聞きて皆涙を流す。田道間守は、是三宅連が始祖(はじめのおや)なり。

 

 「解釈」

 九十年春二月の庚子朔(一日)に、天皇は田道間守に命じられ、常世国に派遣して、非時香菓を求めさせた。〔「香菓」はここではカクノミという〕。今、橘というのはこれである。

 九十九年秋七月の戊午朔(一日)に、天皇は纏向宮で崩御された。時に御年百四十であった。

 冬十二月の癸卯朔の壬子(十日)に、菅原伏見陵に葬りまつった。

 翌年春三月の辛未朔の壬午(十二日)に、田道間守は常世国から帰ってきた。(中略)「今、天皇はすでに崩御され、帰着の復命をすることもかないません。私が生きていても、また何の甲斐がありましょうか」と申した。そうして、天皇の御陵に赴き号泣して、自ら死んだ。群臣はこれを聞いてみな涙を流した。田道間守は、三宅連の始祖である。

 

 「注釈」

*古代の事例紹介は終えるつもりでしたが、少し考えたこともあるので、ついでに紹介してしまいます。まずは、かなり時代を遡って、再び『日本書紀』からです。『日本書紀』の自死事例は、以前にも紹介した鈴木英鷹氏の論文(1)でほぼ提示しつくされています。今回の史料も殉死の事例としてピックアップされているのですが、詳細な分析はないので、少し検討してみようと思います。

 ところで、殉死とはどのような死に方なのでしょうか。まずは『国史大辞典』の「殉死」の項目の冒頭部分を引用しておきます。

 「高貴な身分の人や主君などの死に際し、その従者や妻子らが、死者に随従するために、自殺し、もしくは強制的に殺されること。死者の墓に近接して殉死者が葬られる場合には、これを殉葬という(後略)」。

 どうやら、殉死にも他殺と自殺があったようです。今回の史料は間違いなく自殺と判断できますが、田道間守が自死に至る経緯をまとめれば、以下のようになります。田道間守は垂仁天皇に命じられて「非時香菓」を探しに出かけたのですが、帰ってくると天皇崩御しており、報告することも叶わなかったのです。そして死ぬ前に、「私が生きていても、また何の甲斐がありましょうか」と語っています。つまり、田道間守は生きる意味、人生の意義を見失っていると判断できそうです。御陵で号泣しているところをみると、天皇に対する忠誠心はかなり深かったと考えられます。田道間守にとって、天皇は忠義を尽くす対象であると同時に、生きる意味そのものであったようです。「生きる意味の喪失」という原因が、「自死」という結果を生んだ。これが、「殉死」に分類された田道間守の自死の内実だと考えられます。

 次にもう一つ、殉死の事例を紹介します。

 

【史料2】

 「安康天皇元年二月一日」『日本書紀』巻13

          (『新編日本古典文学全集』3─135頁、小学館、1996)

 

 於是、根使主、見押木珠縵、感其麗美、以爲盜爲己寶、則詐之奏天皇曰「大草香皇子者不奉命、乃謂臣曰『其雖同族、豈以吾妹、得爲妻耶。』」既而、留縵入己而不獻。於是、天皇信根使主之讒言、則大怒之、起兵、圍大草香皇子之家而殺之。是時、難波吉師日香蛟、父子並仕于大草香皇子、共傷其君无罪而死之、則父抱王頸、二子各執王足而唱曰「吾君、无罪以死之、悲乎。我父子三人生事之、死不殉是不臣矣。」卽自刎之、死於皇尸側、軍衆悉流涕。

 

 「書き下し文」

 是に天皇、根使主が讒言を信(う)けたまひ、則ち大きに怒りて兵を起し、大草香皇子の家を囲みて殺したまふ。是の時に、難波吉師日香蚊の父子、並に大草香皇子に仕へまつる。共に其の君の罪无くして死にせたまひぬることを傷みて、則ち父は王の頸を抱き、二子は各王の足を執へて唱へて曰く、「吾が君、罪無くして死せたまふ。悲しきかも。我が父子三人、生きてまししときに事へまつれり。死せますときに殉ひまつらずは、是臣にあらず」といひ、即ち自ら刎ねて、皇尸の側に死る。軍衆、悉に流涕ぶ。

 

 「解釈」

 かくて(安康)天皇は、根使主を信じられ、たいそうお怒りになって兵を起こし、大草香皇子の家を囲んで皇子を殺された。この時、難波吉師日香蚊の父子は、共に大草香皇子に仕えていた。父子はその君が罪無くして死なれたことを悼んで、父は王の頸を抱き、二人の子はそれぞれ王の足を持ち、唱えて、「我が君は罪なくして死なれた。悲しいことよ。我ら父子三人は、王の生存中にお仕えしていた。その死に際して殉じなければ、これは臣とはいえない」と言って、直ちに自ら首を刎ねて、皇子の遺骸の傍らで死んだ。軍衆は皆涙を流して悲しんだ。

 

 「注釈」

 事件の詳細は、『新編日本古典文学全集』の解釈を参照していただくとして、ここでは簡単に状況だけまとめておきます。

 この当時、安康天皇は大泊瀬皇子(雄略天皇)と大草香皇子の妹幡梭皇女を結婚させようと考えていました。その使者として派遣されたのが、根使主でした。根使主は安康天皇の意向を伝え、大草香皇子もそれに同意します。そして、皇子はその証として、押木珠縵という宝物を献上するのですが、根使主はその美しさに目が眩み、それを騙し盗ろうと考えます。そこで、根使主は安康天皇に、大草香皇子が婚姻の件を断った、と嘘をついたのです。

 【史料2】は、これに続く場面ということになるのですが、難波吉師日香蚊の父子は、殺害された大草香皇子を悼み、次のように述べます。「我が君は罪なくして死なれた。悲しいことよ。我ら父子三人は、王の生存中にお仕えしていた。その死に際して殉じなければ、これは臣とはいえない」。つまり、難波吉師日香蚊父子は、大草香皇子の生存中のみならず、死に際しても従うことが臣下の道であると考えて、殉死したことになります。

 さて、【史料1】では、田道間守の自死を聞いた群臣は、涙を流しています。【史料2】でも、難波吉師日香蚊父子の死に臨んだ軍衆が涙を流して悲しんでいます。いったい、この涙にはどのような感情が込められていたのでしょうか。三浦佑之氏(2)によると、殉死は臣下として理想化された死であり、ある種の美意識といったものが、死ぬほうにも、それを強いる側にもあったそうです。おそらく、「哀れみ」という言葉を当てるのが適切なのでしょうが、自死に殉死という意味をもたせると、好意的な死に方に評価が変わったようです。

 これは、「日本の古代3」で紹介した長屋王の事例とは対照的です。「自死」の意味とは、本来「自ら命を絶つこと」にすぎないはずですが、同じ事態に対して、今回の事例では「哀れみ」、長屋王の事例では「悪死」という意味を付加しています。「自らの命を絶つ」というシンプルな事実に、人間は「言葉」によってさまざまな意味を付け加え、新たな意味を持たせようとするようです。ということは、本来「自死」に意味などないということです。その場面に遭遇した人間が、「自死」という事態に意味を与えただけなのです。「自死」に与えられた意味など相対的なものにすぎない、その事態を認識する対象によってころころ評価変わってしまう程度のものにすぎない、それどころか、そもそも「自ら命を絶つ」という意味以上のものなどなかったということが、論理的に導き出されるのではないでしょうか。

 くどいようですが、これらのエピソードは史実ではないと考えられるので、これ以上、田道間守や難波吉師日香蚊父子の心理を考察することはできません。ただ、生き続けたいという「生存欲求」と「忠誠心による死」の間で矛盾を感じる描写がないところにも、『日本書紀』というテキストの作為を感じてしまいます。史実としての殉死があったとして、なんの矛盾も感じないで、忠誠心のままにすんなりと自死を遂げた人物など本当にいたのかと考えると、やはり疑わしいです。

 1つだけはっきりしていることは、「自死」を「好悪」で捉えようとする感覚が、古代の段階ですでに実在していたことです。一般化できるかどうかはわかりませんが…。

 

 「注」

(1)鈴木英鷹氏「古代の日本人の自殺について─『日本書紀』の自殺記事による検討」(『精神医学』53─2、2011・2)。

(2)三浦佑之「殉死と埴輪」『巨大古墳を造る 倭王の誕生』(史話日本の古代第4巻、作品社、2003)。