周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 16 ─日本の古代12─

【史料1】

 「仁徳天皇即位前紀」『日本書紀』巻11

           (『新編日本古典文学全集』3─27頁、小学館、1996)

 

 太子曰「我知、不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎。」乃自死焉。

 

 「書き下し文」

 太子の曰はく、「我、兄王の志を奪ふべからざることを知れり。豈久しく生きて、天下を煩さむや」とのたまひて、乃ち自ら死(をは)りたまひぬ。

 

 「現代語訳」

 (菟道稚郎子)太子は、「私は兄王(大鷦鷯尊・仁徳天皇)の志を奪うべきではないことを知っている。どうして長く生きて、天下を煩わすことがあろうか」と仰せられて、自殺なさった。

 

 「注釈」

応神天皇崩御後、皇位継承者である弟菟道稚郎子と兄大鷦鷯尊(仁徳天皇)は、互いに皇位継承を譲り合い、しばらく空位が続いていました。こうしたなかで起きたのが、菟道稚郎子の自殺であり、これが、鈴木英鷹氏(「古代の日本人の自殺について─『日本書紀』の自殺記事による検討」『精神医学』53─2、2011・2)の分類された「世のため人のための自殺」ということになります。

 菟道稚郎子は、兄に皇位を継がせるために、そして天下の煩いにならないために、自殺をしているのですが、これは理由というよりも、目的として分類したほうがよいと考えられます。その後、兄大鷦鷯尊は即位したのですから、菟道稚郎子の目的は成功したことになります。

 

 

【史料2】

 「皇極天皇二年十一月一日」『日本書紀』巻24

           (『新編日本古典文学全集』4─83頁、小学館、1998)

 

 於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。

 

 「書き下し文」

 是山背大兄王等、山より還りて斑鳩寺に入ります。軍将等、即ち兵を以ちて寺を囲む。是に山背大兄王、三輪文屋君をして軍将等に謂らはしめて曰はく、「吾、兵を起して入鹿を討たば、其の勝たむこと定(うつな)し。然るに一身の故に由りて、百姓を傷残はむことを欲せじ。是を以ちて、吾が一身をば入鹿に賜はむ」とのたまひ、終に子弟・妃妾と一時に自ら経(わな)きて倶に死(みう)せましぬ。

 

 「解釈」

 こうして山背大兄王たちは山から戻って、斑鳩寺に入られた。すると軍将たちは寺を兵士で取り囲んだ。ここに山背大兄王は三輪文屋君に命じて軍将たちに語らせて、「私が兵を起こして入鹿を討伐すれば、勝つことは必定である。しかしながら私一身のために人民を殺傷したくないのだ。従って我が身ひとつを入鹿に与えよう」と仰せられ、ついに一族・妃妾と一緒に自ら首をくくって死なれた。

 

 「注釈」

*この当時、蘇我入鹿山背大兄王を廃し、古人大兄皇子を天皇に立てようと謀をめぐらしていました。そして、十一月一日、入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王たちを斑鳩で不意打ちしました。山背大兄王たちは、一旦生駒山に退却しましたが、その後法隆寺に戻ってきます。今回の記事はその場面の続きということになります。

 さて、山背大兄王自死の直前に、「私一身のために人民を殺傷したくないのだ。従って我が身ひとつを入鹿に与えよう」と言います。これも、理由と言えば理由になるのでしょうが、やはり目的に分類したほうがよいのではないでしょうか。

 これまで紹介した自死の描写を改めて振り返ってみると、大きく、自死の「理由」を書いているもの、「目的」を書いているものに分類できると考えられます。なぜ自殺したのかだけでなく、何を目的に自殺したのかという問い掛けも必要なのではないでしょうか。