周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

芸藩通志所収田所文書7

    七 将軍源実朝家政所下文

 

  一 佐[  ]「拒+木」榑事

 

   右、如同状者、榑千寸別二百寸〈公方百寸地頭方百寸〉、「拒+木」又

                        (等)

   同前、先例如此配分、而地頭者於杣山⬜︎置榑末⬜︎山點定任自由點定

         安北郡   (宗)

   取之、次河上可部庄依孝親所一レ知、於彼所限⬜︎上之日、可

   被 院[  ]之間、平均欲沙汰云々者、於杣山

   「拒+木」榑河上率分者、云國衙孝親以下面々地[   ]両方

   率分共以分取之、可止新儀妨矣、

  以前捌箇條、爲大宮大納言家奉行所、被 院宣也、早任先例

  被沙汰之状所仰如件、

 

      (1217)                (景盛)

      建保五年六月廿一日         案主菅野

        (清定)               (孝實)

    令圖書少允清原             知家事惟宗

          (廣元)

    別當陸奥守大江朝臣

       (仲章)

    大學頭源朝臣

             (義時)

    右京權大夫兼相摸守平朝臣

        (頼茂)

    右馬權頭源朝臣

     (門脱) (惟信)

    左衛權少尉源朝臣

         (親廣)

    前遠江守大江朝臣

       (時房)

    武蔵守平朝臣

         (師俊ヵ)

    筭義博士中原朝臣

 

*一行目の「拒+木」ですが、どのような漢字の異体字なのかよくわかりませんでし

 た。「拒」の脚に「木」を当てています。

 

 

 「書き下し文」

  一つ、佐[  ]「拒+木」榑の事、

   右、同状のごとくんば、榑千寸別二百寸〈公方百寸地頭方百寸〉、「拒+木」も又同前、先例此くのごとく配分す、而るに地頭は「杣山に於いて⬜︎置榑末⬜︎山点定」(この部分不明)自由の点定に任せ之を取る、次いで河上可部庄孝親の知る所と為るにより、彼の所に於いて限り有る⬜︎上の日、院[ ]を下さるべきの間、平均に沙汰致さんと云々てへり、件の杣山に於いて「拒+木」榑を河上率分に採るは、国衙と云ひ孝親以下面々地[  ]両方率分共に以て之を分け取り、新儀の妨げを停止すべし、

  以前八箇條、大宮大納言家の奉行所として、院宣を下さるるなり、早く先例に任せ沙汰せらるべきの状仰せの所件のごとし、

 

 「解釈」

  一つ、佐東郡の「拒+木」と榑の事。

   右の件は、同状によると、榑千寸につき二百寸〈国衙分百寸、地頭分百寸〉、「拒+木」も榑と同じで、先例のとおりこのように配分してきた。しかし、地頭は杣山を勝手に差し押さえて取り上げた。次に、川上の可部庄は守護宗孝親に領有されているから、院宣をお下しになって、国衙も地頭も等しく徴収したいという。この杣山で「拒+木」と榑を河上の関所料として徴収したものは、国衙も地頭孝親以下の面々も、両方が関所料としてともに分け取り、先例にかなわない妨害を差し止めなければならない。

  以前、大宮大納言家の奉行所として、八ヶ条を記載した院宣をお下しになったのである。早く先例のとおりに処置するべきであるとの仰せである。

 

*書き下し文・解釈ともに、よくわからないところが多いです。

 

「注釈」

「可部庄」

 ─安北郡。『和名抄』の安芸郡漢弁(かべ)郷の地、現在の広島市安佐北区可部町中心部を領域とする八条院領荘園。安元二年(一一七六)二月の八条院所領目録に庁分荘の一として見える(「山科家古文書」)。大治二年(一一二七)十一月の白河・鳥羽両院の高野山参詣に際し、可部荘用途米百八石が供養上人供料に相折されているように(『高野山文書』又続宝簡集)、立荘はそれ以前に遡る。本家取得分の内の雑公事を除く年貢部分が高野山に充てられたものとみられ、保延五年(一一三九)にも鳥羽上皇によって能美・可部両荘の年貢を大伝法院聖人供料とすることが定められている(「根来要書」)。その後、嘉元四年(一三〇六)六月十二日の昭慶門院所領目録の庁分荘の中に「前平中納言 可部庄」と見えるが(「竹内文平氏旧蔵文書」)、この「前平中納言」はおそらく当時の領家平経親を指すと思われる。

 可部荘の実態については、建保五年(一二一七)六月二十一日の将軍家政所下文がわずかにその手掛かりを与えてくれる(「芸藩通志所収田所文書」)。国衙・地頭間の相論に裁決を下したこの文書から、さしあたって注目されるのは次の二点である。一つは、可部荘が佐東川(太田川)水運の重要な拠点であったとみられること。もう一つは、可部荘地頭を当時の安芸守護宗孝親が兼帯していたという事実である。孝親の守護領の中核部分は葉山城(源)頼宗の旧領を継承したことが明らかで有るが、可部荘にも源平争乱期に在庁源氏一族とみられる可部源三郎(源頼綱)の存在が知られる(「厳島野坂文書」)。(後略)(『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』吉川弘文館、1999)。

 

「大宮大納言」

 ─西園寺公経か。(承安1〜寛元2)鎌倉前期の公卿。太政大臣。父は藤原実宗。源頼朝外戚として勢力をのばし、関東申次西園寺家の基礎をきずく。北山殿のなかに建立した西園寺を家名とした(『新版 角川日本史辞典』)。なお、公経は後鳥羽上皇の院司でもあった(山岡瞳「中世前期公家政権と西園寺家」2017・3、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/225697/3/gnink00822.pdf