九 後醍醐天皇綸旨
源末忠可レ致二合戦之忠一、於レ有二勲功一者、可レ被レ行二勧賞一者、綸旨如レ此、
悉レ之、
(元弘三年) (高倉光守)
八月十四日 勘解由次官(花押)
「書き下し文」
源末忠合戦の忠を致すべし、勲功有るに於いては、勧賞を行はるべしてへれば、綸旨
此くのごとし、之を悉くせ、
(1333)
八月十四日 勘解由次官(花押)
「解釈」
源末忠は合戦で忠義を尽くさなければならない。勲功があれば、恩賞を与えるつもりである。よって綸旨は以上の通りである。忠義を尽くせ。
「注釈」
「源末忠」─石井末忠。?〜一三三六(?〜建武三・延元元)。南北朝時代の武将。安
芸国安芸郡府中の名族。本姓は三宅氏で、代々田所職を継承し田所氏と称
す。父は左衛門尉資賢。正慶二・元弘三(一三三三)閏二月、後醍醐天皇
の伯耆上陸に際しては船上山に参じ、南北朝分裂後は南朝方となった。建
武三・延元元(一三三六)五月、九州から東上する足利尊氏軍を、楠木正
成に従って湊川に迎え撃ち、戦死した(安田元久編『鎌倉・室町人名事
典』新人物往来社、1985)
「高倉光守」─生没年不詳。南北朝時代初期の廷臣。父権中納言経守。母藤原経業の
女。子に経国がある。光守の官は勘解由小路次官、記録所寄人、右中
弁。光守の経歴や事蹟については、ほとんど判明せず、また生没の年時
も詳らかではない。しかし同氏は藤原高藤流の支流であり、吉田氏とも
同族であり、光守は後醍醐天皇の蔵人として元弘から延元に至る年間、
同天皇の綸旨を多く奉じており、また記録所寄人になっているから、建
武新政の要務にもあたっていたものと考えられる(『日本古代中世人名
事典』吉川弘文館、2006)。