周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 17 ─自死紹介の悩み1─

【その1】

 

 なんとなく気づいていたのですが、予想通り、「因果連鎖の問題」(1)に陥ってしまいました。「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないですが、桶屋が儲かったのは、ネズミが桶をかじったからなのか、猫が減ってネズミが増えたからなのか…、盲人が三味線を買ったからなのか、土ぼこりが目に入って盲人が増えたからなのか、風が吹いたからなのか。どれが原因なのでしょうか、どこからどこまでが原因なのでしょうか、どれも原因なのでしょうか、原因の連鎖が原因なのでしょうか。

 

 因果論を追究することがここでの目的ではないので、これ以上この問題には立ち入りませんが(2)、最初にこの問題にはまったのは、「日本の古代2」で紹介した軽太子と同母妹軽郎女の心中事例です。「絶望」という原因一言で片付けようとすればできるのでしょうが、軽太子らの心中には4つのポイントがありました。①同母兄妹の姦通はタブーであり、軽太子と軽郎女はその禁忌を破った。②それが露見したため、臣下たちは弟穴穂皇子を支持。③軽太子は捕縛され、伊予に配流。④追いかけてきた軽郎女と軽太子は、一緒に自死を遂げる。

 いったい、何が心中の原因だったのでしょうか。①禁忌を破ったことか、②皇位継承争いに敗れたことか、③捕縛され、伊予に配流されたことか、④軽郎女が追いかけてきたことか。①禁忌を破らなければ自殺しなかったのか、②皇位継承争いに勝てば自殺しなかったのか、③捕縛され、伊予に配流されなければ自殺しなかったのか、④軽郎女が追いかけてこなければ自殺しなかったのか。⑤1つの原因だけで自殺したのか、2つの原因で自殺したのか…、すべての原因で自殺したのか。⑥そもそも原因を1つに絞り込むことが間違いなのか、すべての原因で自殺したと説明することで、二人の心中を説明したことになるのか。

 

 こうした問題は、「日本の古代3」で紹介した長屋王の事例にも当てはまります。死の直前の長屋王の心理描写は、「なせる罪もなく捕らえられる。捕らえられたら必ず殺されるだろう。他人の手で殺されるよりは自殺したほうがましだ」というものでした。この3文は、そのまま3つの要素に分類できます。①無実で捕縛されるという予期。②他人の手で殺されるという予期。③他人の手で殺されるよりも自殺を選ぶという価値判断。③の要素を自死の原因とするならば、「他人の手で殺されるよりも自殺を選ぶという価値判断」が自死の原因ということになります。②の要素であれば、「他人の手で殺されるという予期」が原因になります。①の要素ならば、「無実で捕縛されるという予期」が原因となります。「予期」が自死の原因なのか、「価値判断」が自死の原因なのか、これもはっきりしません。

 

 もう1つ、大きな問題があります。上記のような原因で、自殺する人もいれば、自殺しない人もいる。それはなぜか。そんなもの、個人の問題でしょう。気持ちが弱いのでしょう。運命でしょう。寿命だったのでしょう。前世からの因縁だったのでしょう…。たしかに、そうかもしれませんが、本当にそれで説明したことになるのでしょうか。こうした客観性の低い、いわば都市伝説のような言説から脱却するために、諸科学は自殺の研究を積み重ねてきたわけです。しかし、その成果も、原因の分類にとどまっていると言わざるをえません。

 

 「自死」とは何か。どのように分析すれば、「自死」を理解できるのか。どのような言葉を用いれば、「自死」を説明したことになるのか。ここまで自死の史料を紹介してきましたが、検討を重ねればかさねるほど、自死の迷宮に入り込み、抜け出せなくなってくるような気がしてきました。答えが出ないのは、問題の立て方が間違えている。これはよく言われる言説ですが、いったい、私は何を間違えてしまったのでしょう。

 

   つづく

 

【注】

(1)

 一ノ瀬正樹「第2章 因果の知覚」87頁(『原因と結果の迷宮』勁草書房、2001)。

(2)

 前掲(1)一ノ瀬論文(114頁)では、「因果の理解とは、特定の理論をもって世界に対面すると自ら同意し決定し、特定の因果関係が成立していると自ら同意し決定する『行為』であると考えたいのである」と説明されています。つまり、因果関係を絞り込めないということは、私自身が特定の理論を持ち合わせていないことを示しています。私はここまで、自死を遂げた当事者自身が抱いた、真の自死原因を追究しようと考えてきました。しかし、以下、本文で述べるように、明らかにできるのは当事者の自死原因ではなく、それを見聞し書き記した第三者の因果理解でしかありません。したがって私は、自分が特定の理論をもって当事者の自死原因を探ることよりも、第三者がなぜ自死という結果と特定の原因を結びつけたのかという、因果関係の理解の仕方を明らかにするべきではないかと考えています。これが、前近代の史料を分析するときの限界なのかもしれません。