周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 18 ─自死紹介の悩み2─

【その2】

 

 このような自問自答を書き連ねてきて、1つ気づいたことがあります。それは、私が何を目的に自死の原因を追い求めてきたのか、ということです。とても単純すぎて意識にのぼらなかったのですが、どうやら私は「自死を止めたい」ようです。「原因」には「責任」が付きまといます。私は原因を見極めて、それに自死の「責任」を取らせたかったのです。「原因」を排除できれば、自死は止められる。そう考えていましたし、今でもそう思っています。ところが、「因果連鎖の問題」は予想以上に解決困難な課題として、私の前に立ちはだかっているのです。

 

 たとえば、ある人が会社をクビになって、経済的に困窮し、妻子から見捨てられたことを苦に自殺したとします。『自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書』(3)では、自殺の原因動機を、「家庭問題」「健康問題」「経済・生活問題」「勤務問題」「男女問題」「学校問題」等に分類していますが、この架空事例は、「家庭問題」「経済・生活問題」「勤務問題」「男女問題」のどのカテゴリーに分類されるのでしょうか。すべてのカテゴリーに適合すると判断するのでしょうか。一方で、この人物を救うためには、どのような対策が必要なのでしょうか。新たな就職先を世話することでしょうか。クビを取り消させることでしょうか。生活保護を申請させることでしょうか。いくら給付すればよいのでしょうか、10万円でしょうか、100万円でしょうか、年に1度の給付でしょうか、毎月給付するのでしょうか。妻子に戻ってきてもらうことでしょうか。どれが決定的な対策になるのでしょうか。一つでも対策すれば自死は防げたのでしょうか。二つでしょうか。すべてでしょうか。このような対策がすべての人にできるのでしょうか。私にはどうすればよいのかわかりません。

 

 さて、このような問題は、70年以上も前に、アルベール・カミュによって提出されていました。

 

 あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺をするということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない。なにが発作的行為の引き金を引いたか、それを立証することはほとんどつねにできない。新聞はしばしば「ひと知れず煩悶していた」とか「不治の病があった」とか書きたてる。一応もっともに思える説明である。だがじつは自殺の当日、絶望したこの男の友人が、よそよそしい口調で彼に話しかけたのではなかったか。その友人にこそ罪がある。そんな口調で話しかけられただけで、それまではまだ宙に浮いていた怨恨や疲労のすべてが、いっときにどっと落ちかかることがありうるのだから。

             『シーシュポスの神話』(清水徹訳、新潮文庫、14頁)

 

 カミュのこの指摘は、原因の抽出・分析が無駄だということではなく、限界があるということを告白したものだと考えられます。カミュの頭にあったのは、自死は行為であり、自死を遂行する目的こそ問題であると考えていたのではないでしょうか。だからこそ、次のような言葉が紡ぎ出されたと考えられます。

 

 この試論の主題は、まさしく、不条理と自殺とのあいだの関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかというその正確な度合いである。

             『シーシュポスの神話』(清水徹訳、新潮文庫、17頁)

 

 既遂・未遂にかかわらず、自死者は不条理を解決するという目的のために自死という行為に及んだ。カミュはこのように自死を見ていたのではないでしょうか。そして、自死は不条理の解決にならないと考えたからこそ、「不条理」にこだわり、それを描きつづける必要があったのではないでしょうか。不条理な人生でも、生きる意味があると。

 

 私はすっかり見逃していました。自死は「行為」です。そして、「行為」には「理由動機」と「目的動機」が伴います。

 

 行為において行為者は、一定の未来の状景を先取り的に表象し、その状景を実現することにおいて、ある期待された価値に到達しようとする。〈目的〉とは、この、実現されるべく意図されている未来の状景において達成されるはずの価値のことである。(中略)実際、ウェーバーの行為論を現象学の見地から厳密化しようと試みたシュッツは、行為には常に〈目的動機〉と〈理由動機〉が伴うとしている。〈理由動機〉(Weil-Motiv)とは「〜だから」という形式で表現される動機であり、行為の投企を規定する、行為者の過去の諸経験である。〈目的動機〉(Um-zu-Motiv)は、「〜のために」という形式で表現される動機であり、行為を未来から規定する、行為によってもたらされるべき状態のことである。

             「目的」(『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998)

 

 原因・理由だけでは片手落ちで、「目的」を追究してこそ、自死を語ることができるのかもしれません。自死既遂者・未遂者は、いったい自死という行為によって、何を実現しようとしたのでしょうか。

 

 原因分析だけでは片手落ちである理由は、もう一つあります。ここでいま一度、前述の架空事例を繰り返します。ある人物が会社をクビになって、経済的に困窮し、妻子から見捨てられたことを苦に自殺した。ところが、同じ状況にありながら、別の人物は、上司、あるいは妻子、あるいは無関係な他人を殺害するという場合もありえます。何が言いたいか。つまり、同じ社会経済的な原因で、一方は自死に及び、他方は殺人を犯す。死に至らしめる暴力が自己に向かうのか、他者に向かうのかという意味で、両者は正反対の方向性をもっています。同一の原因でありながら、行為が異なるのです。原因の分析に限界があることは、ここからもわかると思います。同じ社会経済的な原因でありながら、正反対の行為に及ぶということは、その行為を分けた何かが決定的に異なるはずです。それが、目的なのではないでしょうか。自死によってどのような目的を実現しようとしたのか、殺人によってどのような目的を実現しようとしたのか。自死によって実現された目的にどのような価値を見出していたのか。殺人によって実現された目的にどのような価値を見出していたのか。原因の次に追究するべきことは、目的なのではないでしょうか。そして、カミュのように、その目的が不条理の解決につながらないことを証明しなければ、自死の本質的な解決にはならないのではないでしょうか。

 

   つづく

 

【注】

(3)

 『自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書』(平成17年度内閣府経済社会総合研究所委託調査、京都大学、2006、http://www.esri.go.jp/jp/prj/hou/hou018/hou018.html)18頁の図Ⅰ─8・9。