周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 19 ─自死紹介の悩み3─

【その3】

 

 さて私は、自死によって実現される事態・価値を自死の「目的」と表現しましたが、ダグラス(Jack D.Douglas)という社会学者は、同様のものを自殺の「社会的意味」として追究しています。本来はダグラスの原著に目を通すべきなのですが、英語の著作はさすがに読めないので、ダグラスの研究を詳細に検証された杉尾浩規氏の論文(4)に導かれながら、必要な箇所をまとめてみたいと思います。

 ダグラスは、自殺者が自殺行為に付与する「主体的意味」を、社会から隔絶した純粋に個人的なものとは考えず、自殺者本人やその関係者との相互作用によって構築される「社会的意味」であるとみなしています。そして、パターン化された自殺の社会的意味として、「復讐」、「救済の求め」、「同情」、「逃避」、「後悔」、「罪滅ぼし」、「自己処罰」、「真剣さ」などを挙げているのですが、この社会的意味が、自殺者による自殺行為の主体的意味の構築に影響を及ぼすと考えているのです(5)

 

 では、日本の場合、中世の場合、どのような原因と目的で自死を遂げるのでしょうか。ダグラスの意味(目的)類型と同じもので説明できるかもしれません。それならばそれでよいのですが、それでもさらに疑問が残ります。それは、目的を実現するために、なぜ自死という行為が選ばれたのか、という点です。私など想像もつかない苦痛や絶望のなかで、ふと死が頭をもたげ、いわば無意識のうちに自死を遂げるという場合があるかもしれません。もう、何も考えたくない、何も考えられない、正常な思考ができない、という状況です。しかし、それでも、そこで、なぜ自死がふと頭をもたげてくるのでしょうか。どうして無意識に自死が頭を過ぎるのでしょか。意識的か無意識的かはさておいて、自死が脳裏に浮かんでくる理由を問題にしなければならない、と私は考えています。実践的な解決にはならないかもしれませんが、理由を浮き彫りにして、客観視できる状態にしておく必要は十分にあると思います。目的実現のためならば、他の行為を選択してもよいはずなのに、それでも自死を選ぶ理由は何か。これも新たな理由の分析になるので、いずれ「因果連鎖の問題」に陥るのかもしれませんが、それでも問題にしなければならないと考えます。

 

 ここで再度、前述の架空事例に戻ります。ある人物が会社をクビになって、経済的に困窮し、妻子から見捨てられたことを苦に自殺した。かりに自死の目的を、苦痛からの逃避としておきます。経済的に困窮しただけなら、自己破産や生活保護を申請するという逃避行為を選ぶこともできます。なぜそうしなかったのか、そうできなかったのか。そんなことをしても、クビになった心理的苦痛と、妻子から見捨てられた孤独感から逃避することができなかったからか。こうした問いに答えることができれば、自殺のより深い原因、つまり自殺者を雁字搦めにしている「しがらみ」を突き止めることができるかもしれません。

 

 私は、いかなる状況にあろうと、自殺は自殺者本人が望んだ、選んだ行為だと考えています(6)。ただし、人間は生まれながらに「希死念慮」「自殺念慮(7)をもっているわけではありません。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊は死にたいと考えることはできないはずです。なぜなら、赤ん坊には「死」の概念がないから、「死」という言葉が備わってないからです。あるとすれば、苦痛や恐怖の拒絶、あるいはそこからの逃避ではないでしょうか。人類最初の自殺は、自殺にみえた逃避だったのかもしれません。逃避の結果、死に至っただけの話で、死んだ人間は死を望んで死に至ったわけではない、と思われます。ある人間の逃避行動から死に至る過程を見た第三者が、それに「自ら死んだ」「自分を殺した」という言語的記号を付けたのではないでしょうか。もしこの想定が正しいなら、「自死」はそのスタートから、言葉によって意味づけをされた、極めて社会的な行為ということになりますし、自死を個人の問題に矮小化すること自体、大きな間違いだということにもなります。

 

   つづく

 

【注】

(4)

 杉尾浩規「資料としての自殺 ─フィジーの自殺研究と共に─」(『人類学研究所 研究論集』第3号、2016、158頁、http://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/ronshu.html)。 

(5)

 ダグラスは、自殺者の個人的な自死原因・目的を「主体的意味」と表現し、一定の社会集団のなかで共有されパターン化された原因・目的を「社会的意味」と表現しているようです。私は、原因と目的を区別したほうがよいと考えているので、以後も「目的」という言葉を使います。そして、原因や目的を、個人的なものと社会的に類型化されたものに区別して論じなければならない場合にのみ、「主体的意味」と「社会的意味」という言葉を使います。

(6)

 これは自死の定義に関わる問題なので、本当は軽々しく言えません。自死に分類するかどうか判断に迷う事例の1つに、「命がけの行動の結果、死に至った」という場合があります。たとえば、「危険な冬山に登るのは自殺行為だ」などと表現される行為です。危険な登山を強行した当事者には自殺念慮はありません。ただ、生きて目標を果たすために、死に至るかもしれない危険な行為に及んだだけなのです。つまり、「死を覚悟した行為」「命を賭した行動」というのは、その目的が生きて実現されることを望んだものだと判断できます。したがって、これらの行動は「死を選ぶこと・望むこと」とは違います。ですが、不幸にもその登山者が亡くなってしまった場合、事情を知っていれば事故という判断になるのでしょうが、事情を知らなければ自死と判断される可能性があります。その反対に、事故だと判断したものが、本当は自死だったという場合も考えられます。後に注(11)でも述べますが、結局のところ、自死はそれを認定する人物の見方(バイアス)に左右されることになります。どこまで正確に判別できるかわかりませんが、定義上、死を覚悟した行為によって死に至った場合を、私は「自死」とは認めません。

 もう一つ判断に苦しむのが、「刑罰としての切腹」です。私は切腹を「自死」に分類するべきだと考えています。明らかに強制された自害ではあるのですが、本当にそれが嫌ならその場で暴れ、斬り殺されること(最後まで自らの手で死ぬことだけは避けたい)を選んでもよいはずです。そんな意志も力もない、つまり諦めたというのは、消極的ではあるのですが、それでも能動的に自死を選択した、望んだということになるのではないでしょうか。私は、この「能動的に自死を選ぶ」=「自殺念慮」のみを課題にしようと考えています。この他にも、分類しにくい事例が出てくると思いますが、その都度考えていきたいと思います。

(7)

 医学の分野では、「希死念慮」を「死を願う気持ちのことだが、自殺までは考えていない場合」、「自殺念慮」を「自殺という能動的な行為で人生を終わらせようという考え方」と分類・定義しています(『自殺未遂者への対応─救急外来(ER)・救急科・救命救急センターのスタッフのための手引き─』日本臨床救急医学会、2009・3、http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/07_2.pdf)。また、自殺念慮により自殺するための具体的な行動をとることを「自殺企図」と呼び、死に至った場合は「自殺(自殺既遂)」、生存している場合は「自殺未遂」と定義しています(『精神科救急医療ガイドライン(3)』日本精神科救急学会、2009・12、http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12200000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu/11_2.pdf)。これらの調査研究報告は、厚生労働省のホームページ、「自殺対策」「5調査研究等」「報告書・ガイドライン」(http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000135234.html)で閲覧することができます。