周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 20 ─自死紹介の悩み4─

【その4】

 

 そうすると、「自殺念慮」という欲求は、いったいどこから生まれてきたのでしょうか。なぜ、人間は成長とともに死を望むようになるのでしょうか。こうした問題について1つの答えを与えてくれるのが、坂田登氏の論文(8)です。これは、生やセックス、死の問題を、「フェティシズム」の観点から論じた研究なのですが、「希死念慮」について、次のような重要な指摘をしています。

 

 人間のみが自らの死に方を選択したり、死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである(坂田論文2頁)。

 

 では、「フェティシズム」とは何か。坂田氏によれば、「記号化されることによって始めて価値あるいは意味を持つようになったものに欲望が向けられること」(2頁)であり、「私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、『理性』によって記号に置き換え、フェティッシュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の対象にしたりしている」(2頁)と説明しています。つまり、「フェティシズム」の成立にとって、本質的な役割を果たしているのは、記号(言葉・言語)なのです。坂田氏はさらに、言語能力や言葉について説明を続けます。

 

 簡単に言えば、言葉とは本物(実体)の代わりとなる記号、シンボルあるいはその代替物である。例えば、「イヌ」という言葉は本物の犬の代わりをする記号、シンボルなのである。そして、われわれが理性によって何かを認識するというときに、行っている作業が本物(実体)を記号に置き換えるという作業であり、理性によって何かを認識するということは本物(実体)を失って、記号を獲得するということである。そのような理性のはたらきによって、われわれによって生きられている世界の全体が、われわれ自身の身体をも含めて、記号に置き換えられ、記号化されていくのである。そして記号はもはやその指示対象としての実体からは分離され、浮遊する記号、シンボルとなり、われわれにとっての世界および身体は記号あるいはシンボルによって虚構されたものとなる。そして、超越論的理性と呼ばれるものそのものもまた理性によって虚構された記号あるいはシンボルにすぎないのである。

 そのような虚構の世界および身体においては、生もセックスも死もまたその実体性を離れ虚構されたものとなってゆく。人間にとって、その生もセックスも死も、記号化されたシンボリックな虚構としてのみ成立するのである。人間のみが生きる意味を問い、それに悩む。そもそも「生きる意味」などどこにも存在しない。われわれはもはや真の意味で「生きる」ことなどできず、「生きる」という記号の中にさらに「生きる意味」という記号を探し求めているだけなのである(坂田論文8頁)。

 

 私たち人間を雁字搦めにしている「しがらみ」の正体が見えてきたように思います。それは「言葉」。絶対不変の価値に基づく「生きる意味」など、どこにもありません。「言葉」によって創り出された、相対可変の価値に基づく「生きる意味」しか存在しないのに、それを喪失したという理由で、人間は「死」に意味をもたせ、死を望むのです。人間は、「ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみ」の状態を「死」と名付け、そこに特別な意味や価値をもたせ、欲望の対象とすることができるのです。人間は、自らが生み出した「言葉」によって、実体から分離した記号である「言葉」によって、その「言葉」が創り上げた虚構によって、自死に追い込まれるのです。

 

 たとえば、365日、24時間続く身体的責め苦を、何年にもわたって受け続けることが確定していて、100%逃避が叶わない場合(これも言葉による認識にはなるのですが)、私には自死を選択しないという自信はありません。ですが、このような身体的苦痛の継続以外は、心理的な苦痛なのではないでしょうか。その心理的苦痛の源は「言葉」による認識でした。本当に苦しいときには、「言葉」を捨てればよい。「言葉」によって創出された「虚構」としての社会的価値観や関係性を捨てればよい。可能であれば、身体ごと逃避して、それらとは無縁のところで生きてもよい。虚構としての社会的価値観や関係性は、いったい誰のためのものなのでしょうか。そのなかで生きるのが本当に苦しいのなら、それはその人のためのものではない、あるいはすでになくなってしまったことだけは明らかです。「三十六計逃げるに如かず」。逃げることは恥ではありません(9)

 

 「そんなこと、できるわけがない。逃げられるくらいなら、自殺などしない」。だから、私の考えは甘いでしょうか。単なる詭弁でしょうか。無責任な発言でしょうか。それとも、弱い私の自己弁護でしょうか…。

 

 人間は他の生命と同様に、死に向かって生きています。したがって、最終的な帰結としての死からは逃れることはできません。だからといって、死ぬために生きているわけではありません。生きているうちは、生きるために生きているだけではないでしょうか。これも違う。ただ、生きているだけ。「生」に意味などなければ、「死」にも意味などない。ましてや「死」に、「復讐」「救済の求め」「同情」「逃避」「後悔」「罪滅ぼし」「自己処罰」「真剣さ」などの意味を求めることも意味がないのです。意味は人間が付与したもの。つまり、付与される前には、何もなかったのです。

 

 そもそも、どうして「生」や「死」に意味など求めなければならないのでしょうか。意味がなければ生きていけないのでしょうか、生きていてはいけないのでしょうか。こんな問いかけ、大きなお世話でしょうか…。

 

 人間はどんな状況にあろうと、身体(しがらみの根源である言葉を扱う脳を含めて)はその生命を維持するための仕事を粛々とこなしています。しかも、何も言わずに…。ウイルスが侵入すれば免疫細胞がそれを撃退する。身体のバランスが崩れれば各臓器がホルモン物質を分泌し、体調を整える。新陳代謝のために栄養分を欲するから、精神的に追い込まれていても、大なり小なり腹が減る。命の継続・停止の判断を、心や精神にだけ任せてよいものなのでしょうか。「維摩一黙」(10)。一度、言葉から離れてみるのもよいかもしれません。

 

 あぁ、なんと薄くて浅い私の言葉でしょうか。オブラートのようなペラペラ感です。先学の意見をつぎはぎして、自分の主張であるかのように表現する。この胡散臭い態度に、乾いた笑いが止まりません。「カエサルのものはカエサルに」。こんな基本的なことさえ、私はできなくなったようです。

 

   つづく

 

【注】

(8)

 坂田登「セクシュアリティのエチカ(2)」(『福井大学教育地域科学部紀要』Ⅴ(哲学編)、47、2007、https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/BD00001818_001_cover._?key=WMYQRY)。これほどおもしろい哲学の論文を読んだのは初めてでした。あまりにもおもしろかったので、自死のテーマとは関係ありませんが、少しばかり内容を紹介していきます。

 

 「ところで、性行動、生殖行動といったものは人間以外のすべての有性生殖を行う生物にも見いだされるが、人間における性行動の第一の特徴は、それが常に生殖(子作り)をその目的として行われるものではないということである。人間の性行動だけが、生物学的意味でのその本来の目的からは逸脱しており、むしろ形而上学的な対象、目的にさえ向かいうるのである。その意味において、人間の性は倒錯的であることをその特徴とする。そして、その性倒錯の人間における多様さは驚くほどである。その性的対象および性的目的は、人間個々人において皆異なるといって良い。たとえ同じ異性愛者であっても、どのような異性をその性的対象とするか、その異性の持つどのような特徴、どのような部分に魅せられるか、皆一人ひとりにおいて異なるといってよい。即ち、人間は皆性倒錯者であるといえるのである。

 しかし、実際のところ『性倒錯』と見なされてきたのは、その結果が生殖(子作り)に結びつくような異性愛ではない限りでの性愛の在り方である。そして、それが真摯な学問的研究の対象とされるようになったのは、19世紀末になってからのことである」(坂田登「セクシュアリティのエチカ(1)」2頁、(『福井大学教育地域科学部紀要』Ⅰ(哲学編)、46、2002、http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8743920)。

 

 人間はすべて性倒錯者だ。このようなことは、今まで考えたこともありませんでした。人間は「常識?」から逸脱した性的嗜好を異常・変態であると分類し、偏見や差別の対象としたり、精神疾患とみなして研究・治療したりしてきたわけです。しかし、本論でも述べるように、この倒錯は「性」に限ったことではありません。人間が言葉を使うかぎり、あらゆる場面でその倒錯から逃れることはできないようです。神仏を敬うのもフェティシズム。悪魔を毛嫌いするのもフェティシズム。民主主義、共産主義ナショナリズムグローバリズム…を信奉するのもフェティシズム。積極的に生きることを賞賛し、消極的な姿勢を非難するのもフェティシズム。流行に乗るのも、我が道を貫くのもフェティシズム…。

 人間の社会がよくわかってきました。こんなことを言うと怒られそうですが、たとえば、民主主義に共感する変態が寄り集まって「正常」を名乗り、マジョリティとなっているのが、現代の日本ということになりそうです。これに賛同できないマイノリティの変態集団は「異常」と名付けられ、肩身の狭い思いで生きていくか、闘争するしかありません。このような視点で与党と野党の論戦を見ると、ちょっと笑えてきます。お互いがどちらの変態性が優れているのか、どちらの変態性が劣っているのかを、真剣に議論し、罵倒しあっているわけですから。どちらも同じ、「異常な変態」なのですけど…。当然、私も「異常な変態」です。

(9)

 『南斉書』(列伝第七王敬則)にある、「檀公三十六策、走是上計」が語源です。また、兵家の孫子も、「少則能逃之、不若則能避之(少なければ則ち能く之を逃れ、若かざれば則ち能く之を避く)」(自軍の兵力が敵よりも少なければ、兵力を保全していかに退却するかを画策する。まったくかなわないほどの力差であれば、ただちに戦場からの離脱をはかる)と述べています(『孫子』三、謀攻篇)。孫子には、逃げることについての「恥」の意識はないのです(蜂屋邦夫・湯浅邦弘『老子×孫子 「水」のように生きる』別冊NHK100分de名著、2015)。

(10)

 「維摩一黙」という熟語のもとになっているエピソードは、次のようなものでした。まず維摩は菩薩たちに向けて、「どのようにして〝不二の法門〟に入るのか」と問いかけます。「不二の法門」とは、「善と悪、美と醜、浄と不浄など相反するものが一つとなる世界」、つまり「悟りの世界」を指します。この問いに、さまざまな菩薩たちが答えていくのですが、最後に文殊菩薩が、「私の考えでは、すべての存在や現象において、言葉も思考も認識も問いも答えも、すべてから離れること、それが不二の法門に入ることだと思います」と答えます。そして、文殊菩薩維摩に向かって「私たちはそれぞれ自分の考えを述べました。維摩さん、あなたは不二の法門へどのようにして入るとお考えでしょうか」と逆に意見を求めます。ですが、維摩はただ押し黙ったままで何も語ろうとしません。その様子を見た文殊菩薩は、「すばらしい、一文字も一言もないとは! これこそすべての境界が解体された世界です」、と感嘆の声をあげます。以上の解説は、釈徹宗『100分de名著 維摩経』(NHK出版、2017)を参照しました。また、入不二基義ウィトゲンシュタイン─「私」は消去できるか』(シリーズ・哲学のエッセンス、NHK出版、2006)でも、維摩経について詳しく触れられています。