周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 23 ─中世の説話2─

或る女房、天王寺に参り、海に入る事」『発心集』第3─6

       (三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄學燈社、2006)

 

 鳥羽院の御時、ある宮腹に、母と女と同じ宮仕へする女房ありけり。年ごろへて後、此の女、母に先立ちてはかなくなりにけり。歎き悲しむ事限りなし。しばしは、かたへの女房も、「さこそ思ふらめ。ことわりぞ」なんど云ふ程に、一年・二年ばかり過ぎぬ。其の歎き、さらにおこたらず。やや日にそへていやまさり行けば、折りあしき時も多かり。こと忌みすべきころをも分たず、涙をおさへつつ明し暮すを、人目もおびただしく、はてには、「此の事こそ心得ね。おくれ先立つならひ、今はじめける事かは」なんど、口やすからずざざめきあへり。

 かくしつつ、三年と云ふ年、ある暁に、人にも告げず、あからさまなるやうにて、まぎれ出で、衣一つ、手箱一つばかりをなん袋に入れて、女の童に持たせたりける。京をば過ぎて鳥羽の方へ行けば、此の女の童、心得ず思ふほどに、なほなほ行き行きて、日暮れぬれば、橋本といふ所に留まりぬ。明けぬれば、また出でぬ。からうして、その夕べ、天王寺へまうで着きたりける。さて、人の家借りて、「ここに、七日ばかり念仏申さばやと思ふに、京よりは、其の用意もせず。ただわが身と女の童とぞ侍る」とて、此の持ちたりける衣を一つ、取らせたりければ、「いとやすき事」とて、家主なん、其の程の事は用意しける。

 かくて、日毎に堂に参りて、拝みめぐる程に、またこと思ひせず、一心に念仏を申したりける。手箱・衣二つとは、御舎利に奉りぬ。七日に満ちては、京へ帰るべきかと思ふ程に、「かねて思ひしより、いみじく心も澄みて、たのもしくはべり。此のついでに今七日」とて、また、衣一つ取らせて、二七日になりぬ。其の後聞けば、「三七日になしはべらん」とて、なほ衣を取らせければ、「何かは、かく、度ごとに御用意なくとも、さきに給はせたりしにても、しばしは侍りぬべし」と云へど、「さりとて、此の料に具したりし物を持ちて帰るべきに非ず」とて、強ひて、なほ取らせつ。三七日が間、念仏する事二心なし。

 日数満ちて後、云ふやう、「いまは京へ上るべきにとりて、音に聞く難波の海のゆかしきに、見せたまひてんや」と云へば、「いとやすき事」とて、家の主しるべして、浜に出でつつ、すなはち、舟にあひ乗りて、こぎありく。いと面白しとて、「今少し、今少し」と云ふ程に、おのづから澳に遠く出でにけり。

 かくて、とばかり西に向ひて念仏する事しばしありて、海に、づぶと落ち入りぬ。「あな、いみじ」とて、まどひして、取り上げんとすれど、石などを投げ入るるが如くにして沈みぬれば、「あさまし」とあきれ騒ぐ程に、空に雲一むら出で来て、舟にうちおほひて、かうばしき匂ひあり。家主、いと貴くあはれにて、泣く泣くこぎ帰りにけり。

 その時、浜に人の多く集りて物を見あひたるを、知らぬやうにて問ひければ、「澳の方に、紫の雲立ちたりつる」なんど云ひける。

 さて、家に帰りて、あとを見るに、此の女房の手にて、夢の有様を書き付けたり。「初めの七日は、地蔵・竜樹来たりて、迎へたまふと見る。二七日には、普賢・文殊迎へたまふと見る。三七日には、阿弥陀如来、諸々の菩薩と共に来たりて迎へたまふと見る」とぞ書き置きたりける。

 

 「解釈」

 鳥羽院の御代、ある宮様に、一緒に女房として仕えている母と娘がいた。何年か経って、娘が母に先立って死んでしまった。母の女房は、ひどく嘆き悲しんだ。その後しばらく、仲間の女房も、「さぞかしお悲しみでしょう。むりもない」などと言ううちに、一、二年が過ぎた。しかし、女房の嘆きは少しもおさまらない。むしろだんだん日が経つにつれて一層ひどくなっていったので、泣くのが具合悪いときも多かった。めでたい日など、涙を忌むべきときも同じように、涙を抑えて過ごすので、それが人目について、果てには、「あの人のことはどうかと思う。人と死別するのは当たり前で、今に始まったことではない」などと、皆は非難がましく騒ぎ立てた。

 そして三年目にあたる年になって、ある日の暁、人にも告げず、ふとした外出のふりをして、仕えていたところを出た。衣一枚、手箱一つだけを袋に入れて、女の童に持たせた。都を出て、鳥羽の方に向かっていくので、この女の童は、不思議に思っていると、なおもどんどん進んでいって、日が暮れたので、その日は橋本というところに泊まった。次の日、夜が明けると、再び出発した。そしてようやく、その夕方に、天王寺に参り着いたのであった。そして、人の家に宿をとって、「ここにいて、七日間ほど念仏を唱えたいと思いますが、京を出るに際してその用意をしませんでした。ただ私と女の童だけです」と言って、この持っていた衣を一枚、贈ったところ、「おやすいご用です。どうぞ」と言って、家主は、七日間の用意をしてくれた。

 こうして、毎日、堂に参って巡拝している間、他のことは気にかけず、一心に念仏を唱えていた。手箱と衣二枚とを、御舎利に奉納した。予定の七日間が終わったので、京へ帰るのかと家主は思ったが、女房は、「かねて思っていた以上に、とても心が澄んで、死後のことも頼もしく思われます。このついでに、もう七日いたいと思います」と言って、また衣を一枚与え、十四日間滞在した。その後、予定を聞くと、「二十一日間にしたいと思います」と言って、また改めて衣を与えるので、家主は、「いや結構です。そんなに延期を申し出られるたびにお気遣いなさらなくても、先日いただいた分で、しばらくは足りるはずですから」と言うが、「でも、差し上げるために持ってきた物を持ち帰るわけにはいきません」と言って、むりやりに、言葉通りに与えた。女房は、二十一日間、余念なく念仏を唱えた。

 二十一日間が終わった日、女房は、「もう京に帰らなければなりませんが、ついては、有名な難波の海を見たいのでお世話いただけませんか」と言うと、「おやすいことです」と言って、家主は案内をして、浜に出て、すぐに船に一緒に乗って、漕ぎまわった。とてもおもしろがって、「もう少し。もう少し向こうまで」と言っているうちに、自然と船ははるか沖のほうまで出てしまった。

 そして、しばらく西に向かって念仏を続けて、そのあげく、海中に身を投げ、たちまち沈んでしまった。「あっ、大変だ」と言って、家主が慌てて引き上げようとしたが、まるで石などを投げ込んだような速さで沈んだので、「なんということだろう」とあきれ騒ぐうちに、空に一むらの雲が現れて、舟を覆って、香ばしい香りがした。家主は非常に貴く思い、感動して、泣く泣く浜辺に船を漕ぎ返していった。

 その時、浜に大勢の人が集まって、皆で何かを見ていた。家主は何事もなかったようなふりをして、そのわけを問うと、「沖のほうで、紫の雲がわいたのです」と人々は言った。

 その後、家主が家に帰って、女房のいた跡を見ると、彼女の筆跡で、見た夢のありさまを書きつけた物があった。その中に、「初めの七日目には、地蔵と龍樹が迎えに来てくださった夢を見る。十四日目には普賢と文殊が迎えに来てくださった夢を見る。二十一日目には、阿弥陀如来がもろもろの菩薩とともに迎えに来てくださった夢を見る」とあったという。

 

 「注釈」

 前回に引き続き、『発心集』の事例を紹介します。まずは今回のエピソードを、時系列でまとめてみます。

 ①主人公の女房は娘に先立たれました。二年が過ぎてもその悲しみは癒えず、不適切な状況で涙を見せることもあったので、人々から非難されていました。

 ②三年後、女房は京を出て天王寺に向かいます。最初の七日間、天王寺で一心に念仏を唱えたところ、心が澄み渡り(悲しみが癒えてゆき)、七日目に地蔵と龍樹を夢で見ます。地蔵と龍樹は阿弥陀五尊形式の脇侍なのですが(清水善三「来迎図の展開」『京都大學文學部研究紀要 』19、1979、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73006/1/KJ00000077708.pdf)、この両尊を夢に見たことで、女房は極楽往生の奇瑞を得たと考えたのではないでしょうか。そして、往生を確信するため、さらに七日間日延べして、念仏を続けることにしたのだと考えられます。

 ③念仏を続けて十四日目には、普賢と文殊を夢に見るのですが、両者は釈迦三尊形式の脇侍です。釈迦は「浄土に行くよう念仏をすすめる」(「発遣」『日本国語大辞典』)仏であるので、その脇侍を夢に見たということは、さらに奇瑞が続いたことを意味します。ですが、発遣を暗示する菩薩の夢想だけではまだ往生を確信できないため、もう七日間滞在して念仏を続けたと考えられます。そして最後の二十一日目には、阿弥陀と諸菩薩が来迎する夢を見たのです。女房はこれで往生の確信を得て、入水を遂げたと考えられます。

 ④二十一日間の滞在が終わった日、女房は家主の案内で難波の海に船で漕ぎ出し、西に向かって念仏を唱え、海中に身を投げました。そのとき、紫雲が現れて舟を覆い、妙香が漂ったのです。入水後に紫雲・妙香という瑞祥が現れていることからすると、極楽往生は成功したのでしょう。

 

 以上が、この話の要点になります。主人公の女房は、娘の死を原因に天王寺で念仏三昧に入りました。その結果、娘の死の悲しみと来世への不安が薄れます。さらに、夢想という奇瑞を得たことを直接の原因として、極楽往生という目的を明確に思い立ち、それを遂げるために入水したのです。これが、この伝承を伝えてきた人々の、そして書き残した鴨長明の因果理解だったといえます。

 娘の死に対する悲しみは、最初の七日間で癒えつつあったようなので、これを入水往生の原因とすることはできません。原因はやはり阿弥陀を夢想したことです。これがなければ、入水自殺することはなかったでしょう。そして、極楽往生を遂げるためには、正念を保ったまま死ななければならなかったのです。生きたままたどり着ける補陀落山とは大きな違いと言えます。

 前回の記事「中世の説話1」でも指摘したように、病気などによって臨終の間際に正念を失う場合がありました。つまり、病死・事故死・他殺などでは極楽往生は実現できない可能性があったのです。「正念を維持した死」を実現するためには、阿弥陀を信じ切り、往生を確信した状態で、自ら命を絶つことが必要だったのでしょう。これが、極楽往生自死を結びつけた理由だと考えられます。

 分かりきっていたことですが、こうした原因や目的の背後には、平安期に大流行した浄土思想があります。浄土思想の倫理的是非など、ここでは問題にしません。ただ、この思想が人々を自死に誘ったことだけは間違いないのです。