周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 24 ─中世の説話3─

 「入水したる上人の事」『沙石集』巻第四ノ六

              (『新編日本古典文学全集』52、小学館、2001)

 

 ある山寺に、上人あり。道心深くして、憂世に心をとどめず、急ぎ極楽へ参らんとおもひければ、入水して死なんとおもひ立ちて、同行を語らひて、舟を用意して、水海のありけるに漕ぎ出でぬ。この上人申しけるは、「臨終一期の大事なり。往生の大事、臨終の作法、未だ得ざる事なれば、いかがとおぼつかなし。それに付きては、水に入りて後も、妄念妄心ありて、命も惜しく、余念も交じらば、往生も浮上なれば、水に入りて後、尚も生きいでたき事あらば、縄を引くべし。さあらば引き出だし給へ」とて、脇に縄をかけて、念仏を唱へて、飛び入りぬ。哀れに思ふ処に、縄を引きければ、引き上げつ。濡れ濡れとして上がりぬ。心得ず思ひながら、約束なれば、兎角に及ばず。さて、上人曰く、「水中にて、苦痛あつて、妄念起きつれば、この心にてはよもと思ひて、上がりたり」と云ふ。

 さて、日比経て、今度はさりともとて、また舟に乗りて出でぬ。また前の如くに飛び入りて後、脇を引きければ、引き上げて帰りぬ。またその後、両三度慣らして、水に入りぬ。例の如く、させる事アランと思ひけるほどに、飛び入りて縄を引かず。さるほどに、空の中に音楽聞こえ、波の上に紫雲たなびきて、目出かりければ、随喜の涙、櫂の雫ととまらず。

 実に、名聞我執の心にて往生すべからず。真実の信心にてこそ、素懐をも遂ぐべけれ。頸くくり上人には似ずにこそ。能く能く慣らして、往生しける、賢くこそ覚ゆれ。

 

 「解釈」

 ある山寺に上人がいた。道心が深く、憂き世を心にかけることもなく、一刻も早く極楽へ参ろうと思ったので、入水して死のうと思い立った。修行仲間の僧に相談して船を用意し、湖に漕ぎ出していった。この上人は、「臨終は一生で最も大事なことである。普段し慣れた事でも過ちを犯したり、失敗したりするものなのだ。往生の大事や臨終の作法は、未だ経験したこともないので、どのようなものかと心配だ。それについて考えたのだが、水に入ってからも妄念妄心があって、命も惜しく、往生以外の余念が交じったら往生出来るかどうかも確かでないので、水に入ってから、もしまだ生きていたいと思うような事があったら、縄を引こうと思う。そうしたら私を水から引き出して下され」と申した。そして自分の脇に縄をくくりつけ、念仏を唱えて水に飛び込んだ。あわれに思っていると、水の中から縄を引っ張ったので、上人を引き上げた。びしょ濡れで船に上がってきた。仲間は納得がいかずに思っていたが、約束だったので何も言わなかった。上人は、「水中で苦しくなって妄念が起きてしまったので、この心ではよもや往生できまいと思って上がってきたのだよ」と言った。

 何日か経って、今回は大丈夫だろうと、再び舟に乗って湖に漕ぎ出した。また前のように水に飛び込んでから、腰の縄を引っ張ったので、船に引き上げて帰った。その後も二、三回繰り返し慣らして、水に飛び込んだ。いつものように縄を引くだろうと思っていると、縄を引かない。そうこうするうちに、空に音楽が聞こえ、波の上に紫の雲がたなびいた。あまりにも素晴らしかったので、見守った者たちの随喜の涙は、櫂の雫のようにとどまることがなかった。

 本当に名聞や我執の心から往生すべきではない。真実の信心によってこそ、往生の素懐も遂げることができよう。頸括上人とは大違いだ。よくよく慣らしてから往生したのは、賢明なことだったと思われる。

 

 「注釈」

「沙石集」─鎌倉中期の仏教説話集。無住著。1283(弘安6)成立。以後補筆さ

      れ、10巻。平俗な文体で、庶民世界の実話などに取材し、笑話もまじえ

      ながら教理を説く(『角川新版日本史辞典』)。

「頸くくり上人」─『沙石集』(巻第四ノ五)の主人公大原の上人。今後紹介する予定

         の「中世の説話6」参照。

 

*今回は、『沙石集』に書き残された入水事例を紹介してみよう。さして複雑でもないのだが、ひとまず内容を整理しておきたい。

 主人公の上人は仏教への信仰心が深く、現世への執着心もなく、すぐにでも極楽往生を遂げたいと考えている。したがって、この思考が入水の原因(信仰心・現世への執着心の不保持)・目的(極楽往生)だと読み取れよう。これまでに紹介してきた「中世の説話1・2」と同様に、自死が往生の手段として結びつけられていること、そして臨終の間際に妄念妄心が生じれば、極楽往生を成功させることができないと考えていることもわかる。ただ、この上人は用心深い人物だったようで、生存欲求が生じて往生に失敗することを恐れ、次のような「保険」を掛けている。つまり、上人は自分の脇に縄を括りつけ、生きたいと思うことがあれば縄を引くので、それを合図に引き揚げてほしい、と仲間の僧侶に依頼しているのである。

 上人は数回、入水しては引き揚げられるという行為を繰り返したのち、とうとう入水自殺を成功させたのであるが、そのとき、空から妙音が聞こえ、紫雲もたなびくという祥瑞が起きたことで、仲間の僧侶は往生の成功を確信したようである。最終段落で著者無住も述べているように、「真実の信心」によってこそ往生は実現できるのであって、「名聞・我執」、あるいは苦痛・生存欲求といった妄念・妄心は、往生の妨げにしかならない、と中世人は考えていたのである。

 さて、無住はこの「妄念・妄心」を持たない入水事例を高く評価している。したがって、中世において、真実の信心に基づく入水自殺は、抑止されるべき行為ではなかったといえよう。