周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 25 ─中世の説話4─

「空入水したる僧の事」『宇治拾遺物語』巻第十一・第九話

                     (『日本古典文学全集』二八、小学館

 

 これも今は昔、桂川に身投げんずる聖とて、まづ祇陀林寺にして百日懺法行ひければ、近き遠き者ども、道もさりあへず、拝み行きちがふ女房車など隙なし。

 見れば、三十余ばかりなる僧の細やかなる、目をも人に見合せず、ねぶり目にて、時々阿弥陀仏を申す。そのはざまは、唇ばかりはたらくは、念仏なめりと見ゆ。また時々、そこに息を放つやうにして、集ひたる者どもの顔を見わたせば、その目に見合せんと集ひたる者どもの顔を見わたせば、その目に見合せんと集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめき合ひたり。

 さて、すでにその日のつとめては、堂へ入りて、先にさし入たる僧ども、多く歩み続きたり。尻に雑役車に、この僧は紙の衣、袈裟など着て乗りたり。何といふにか、唇はたらく。人に目も見合せずして、時々大息をぞ放つ。行く道に立ち並みたる見物の者ども、打撒を霰の降るやうに撒き散す。聖、「いかに。かく目鼻に入る、堪へ難し。志あらば、紙袋などに入れて、我が居たりつる所へ送れ」と時々いふ。これを無下の者は、手を摺りて拝む。少し心ある者は、「などかうは、この聖はいふぞ。只今水に入りなんずるに、『ぎんだりへやれ。目鼻に入る、堪へ難し』などいふこそ怪しけれ」など、ささめく者もあり。

 さて、やりもて行きて、七条の末にやり出したれば、京よりはまさりて、入水の聖拝まんとて、川原の石よりも多く、人集ひたり。川ばたへ車やり寄せて立てれば、聖、「只今は何時ぞ」といふ。供なる僧ども、「申の下りになり候ひにたり」といふ。「往生の刻限にはまだしかんなるは。今少し暮せ」といふ。待ちかねて、遠くより来たる者は帰りなどして、川原人少なになりぬ。これを見果てんと思たる者は、なほ立てり。それが中に僧のあるが、「往生には剋限やはさだむべき。心得ぬ事かな」といふ。

 とかくいふ程に、この聖褌にて、西に向ひて、川にざぶりと入る程に、舟ばたなる縄に足をかけて、づぶりとも入らで、ひしめく程に、弟子の聖はづしたれば、さかさまに入りて、ごぶごぶとするを、男の川へおり下りて、「よく見ん」とて立てるが、この聖の手を取りて、引き上げたれば、左右の手して顔払ひて、くくみたる水を吐き捨てて、この引き上げたる男に向ひて、手を摺りて、「広大の御恩蒙り候ひぬ。この御恩は極楽にて申し候はん」といひて、陸へ走り上るを、そこら集りたる者ども、童部、川原の石を取りて、まきかくるやうに打つ。裸なる法師の、川原下りに走るを、集ひたる者ども、受け取り受け取り打ちければ、頭打ち破られにけり。

 この法師にやありけん。大和より瓜を人のもとへやりける文の上書に、前の入水の上人と書きたりけるとか。

 

 「解釈」

 これも今は昔のこと、桂川に身を投げようとする聖だといって、まず祇陀林寺で百日間の法華懺法を行う者がいたので、遠近の人たちが道も避けられないほどに集まり、また拝みに行き来する女房車などすきまもないほどであった。

 見ると、三十余りほどの僧で、ほっそりとしており、目をも人に見合わせず、つむったような目で、時々阿弥陀仏を唱えている。その間には、唇だけが動いているのは、念仏なのだろうと見える。また時々、ふっと息を吐くようにして、集まった者たちの顔を見渡すと、その目と視線を合わせようと、集まった者たちがこち押しあち押しして、ひしめきあっていた。

 そうして、いよいよその日の早朝には堂へ入って、先に入っていた僧たちが大勢それに続いた。後ろの雑役車に、この僧は紙の衣や袈裟などを着て乗っている。何と言っているのか、唇が動いている。人に目を見合わせずに、時々大きな息をついている。行く道に立ち並んでいる見物の者たちは、散米をあられの降るようにまき散らす。すると聖は、「なんと皆の衆、こんなに目鼻に入って、たまらない。お気持ちがあるなら、紙袋などに入れて、わしのもといた寺へ送ってくれ」と、時々言う。これを下賤の者は、手をすって拝む。少し分別のある者は、「なぜこんなことをこの聖は言うのか。いまにも入水しようとするのに、『祇陀林寺へやれ、目鼻に入ってたまらない』などと言うのはどうもおかしなことだ」などとささやく者もいる。

 そうして、牛車をだんだん進めて行って、七条大路の果てまで行くと、京の町内以上に、入水の聖を拝もうとして、川原の石よりも多くの人が集まっている。川のほとりに車を進め寄せて停めると、聖は、「ただ今は何時か」と言う。供の僧たちが、「四時過ぎになりました」と言う。「往生の時刻にはまだ早いわ。もう少し暮れるまで待て」と言う。待ちかねて、遠くから来た者は帰ったりなどして、川原は人少なになった。これを最後まで見届けようと思っている者はまだ立っている。その中に僧がいたが、「往生には時刻を定めるべきだろうか。おかしなことよ」と言う。

 かれこれするうちに、この聖はふんどし一つになり、西に向かって川にざんぶと入ったが、舟ばたにある縄に足をひっかけて、どんぶりとも入らずにもがいているので、弟子の僧がはずしてやると、まっさかさまに入ってごぼごぼとしていた。そこで、川の中へおりて行って、「よくみよう」として立っていた男が、この聖の手をとって引き上げた。すると、聖は左右の手で顔の水をはらい、口に含んだ水を吐き捨てて、この引き上げた男に向かって手をすり合わせ、「なんとも大変なご恩をいただきました。この御恩はいずれ極楽でお返し申しましょう」と言って陸の方へ走り上った。そこで、大勢集まっていた者たちや子供らが、川原の石を取って、撒きかけるように投げつけた。裸の法師が川原を下って走るのを、集まっていた者たちが、引き継ぎ引き継ぎ打ったので、頭を打ち割られてしまった。

 この法師であったろうか、大和から瓜をある人のもとへ送った手紙の上書きに、「前の入水の上人」と書いたとかいうことである。

 

 「注釈」(『日本古典文学全集』の頭注を引用)

「祇陀林寺」─京都中御門京極の東、現在の上京区寺町下御霊社の北方にあった寺院。

       慈恵大師良源の弟子、仁康上人が長保二(一〇〇〇)年四月、その父河

       原左大臣源融の河原院にあった丈六釈迦像を移して創建。承久元(一二

       一九)年焼亡(百錬抄)。延元元(一三三六)年兵乱後滅びたらしい。

「百日懺法」─百日間法華懺法(『法華経』を読誦して、罪障を懺悔する法)を修する

       こと。

 

*今回は、『宇治拾遺物語』の事例を紹介します。これは前3回のパターンとは異なり、入水往生未遂の事例になります。

 主人公の聖が入水をしようとした原因は語られていませんが、阿弥陀仏を念じていることから、西方極楽浄土への往生を目的とした入水未遂だったことがわかります。

 入水当日、聖は見物人から散米を浴びせられるのですが、それが目鼻に入ってたまらないとか、その散米を祇陀林寺へ送ってくれと言うなど、妄念がわき起こっていることがわかります。そして、やっと入水を遂げようとして桂川に飛び込んだのですが、結局溺れているところを見物人に助けられてしまいます。聖はこの見物人に感謝して、その場から逃げ去ろうとしたのですが、見物人から石を投げつけられた挙句、殴られて頭を打ち割られた、というのが事の顛末です。

 この事例から分かるように、入水往生はそう簡単にできる行為ではなかったようです。いざとなると妄念がわき起こり、入水の苦しみから逃れたいと思うようです。

 それにしても恐ろしいのが、入水往生を見届けるためにやって来た見物人たちです。おそらく彼らは、入水往生の現場に立ち会うことで聖と結縁し、死後自分たちも極楽に往生できるように導いてもらおうと考えたのでしょう。だからこそ、入水を中止して逃げ出した聖に対して腹を立て、暴行に及んだのだと考えられます。入水往生では、観衆のプレッシャーにも動じない正念が必要だということがわかります。