周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自死の中世史 29 ─中世の説話8─

 「薬師・観音の利益によりて命を全くする事」『沙石集』巻第二ノ四

              (『新編日本古典文学全集』52、小学館、2001)

 

 尾張国に、右馬允某甲と云ふ俗ありけり。承久の乱の時、京方にて杙瀬河の戦に、手あまた負ひてけり。既に止め刺して打ち棄ててき。武士ども京ヘ馳せ上りぬ。友だちの二人、落ちてその辺に忍びてありけるが、夜に入りて、屍を取りて孝養せんとて、軍の庭を見ければ、手あまた負ひながら、命は未だ絶えざりけり。さて肩に引き懸けて、青墓の北の山へ具し行きぬ。あまた負ひたる手の中に、からぶえを突き通して土に突き付けたりける疵、むねとの大事の手にてありければ、「なにさまにも助かるべからず。首を取りて行け」と云ひけれども、それもさすがかは行ければ、もしや助かると見る程に、落人尋ぬとて、武士うちかかりて罵りければ、夜も明け方に成りぬ。叶ふべくも無かりければ、大きなる木の空洞に、手負をば引き隠して、二人はまた忍びぬ。武士、血をとめて、その辺あなぐり求めけり。木の空洞より見ければ、人の足なむどは見えざりけり。されども求めかねて去りぬ。その後、黒衣着たる僧一人、「横蔵より来れり」とて、草の葉を揉みて賜びければ、これを服して腹の中の血、ある程下して、身も軽く、心地ちと助かりてぞ覚えける。さてこの僧は見えず。

 二人また来りて、「いかにや」とて、木の中より抱き出して身ければ、「かかる事のありて身軽く覚ゆ。歩みて行かん」とて本国へ下る程に、折津河の水まさりて、叶はずしてやすらふ程に、関東へ下る武士見合ひて、怪しみて搦め取りぬ。一度に死ぬべかりつる身の、恥をさらさん事、口惜しく覚え、「河に身を投げん」とて、河のはたへ歩み寄りければ、若き僧一人、竜山寺より来れり。死ぬまじきぞ。自害なせそ」と仰せられけり。夢かとと思へばうつつなり。されども、疵も痛く、日もあつし。耐へがたく覚えければ、尚身を投げんとて歩み寄りけるを、またこの僧、縄を引かへて、「死ぬまじきぞ。あるべからず」と制しければ、思ひ留まりぬ。

 熱田の宮の講衆、神官なんど皆知りたれば、「申し預かるべし。社頭に講行なんど勤めて、奉公の仁にて候ふ、しかしかと申す者なり」と申しけれども、「名人なり」とて許さずして、具して鎌倉へ参りて、義時の見参に入れたりければ、「とくとく首を刎ぬべし」とて、由比の浜へ具し行きぬ。例の僧出で来て、「な嘆きそ。死ぬまじきぞ」と宣ひけれども、今は最後と思ひて、一心に念仏しけり。

 乱橋と云ふ橋の本を出て行きけるに、年頃の知音行き合ひて、「あれはいかに」とて、馬をひかへて問ひければ、「杙瀬河にて死ぬべかりし身の、なほも恥をさらさんとて、かかるようにて、只今こそ」とて涙を流す。この人申しけるは、「年来の知音にて候ふ。大夫殿に参りて申し預かるべし。且く待たせ給へ」とて、馬をはやめて参りて申しければ、「預かるべし」と云ふ御文を給はりて、やがて馳せ返りて、相ひ具してさまざまに労りて、命助かりて、遥かに年たくるまで、本国にありけり。

 からふえの疵故に、声はしはがれたりけり。孫なんど今にあり。その養子にてありし入道の語りしかば、慥かなる事にこそ。上代はかかるためしもあれども、末代は有り難くこそ覚ゆれ。夢にだにも不思議なるに、うつつに現じて助け給ひける利益の目出たさ、貴く忝し。

 美濃国横蔵の薬師は、中堂の薬師の御衣木の切れにて造り奉りたりと申し伝へて、霊験あらたに聞こゆ。年来常に参詣しけり。尾張国竜山寺は、昔、竜王の一夜の中に造り、供養したりけるが、夜の明けしかば、塹は掘りさしたるとて、当時もその跡見え侍り。馬頭観音にて、霊物にて御坐す。年来、月詣でし、十八日ごとに三十三巻誦みて奉りける。かかる因縁を以て御助けありけるにこそ。返す返す忝くこそ。

 

 「解釈」

 尾張国に、右馬允某甲という俗人がいた。承久の乱の時、京方について、杙瀬川の戦いで多くの疵を受けた。止めをさして、彼を打ち棄てて鎌倉方の武士たちは京都へ攻め上っていった。友だちの二人が、逃げのびてその近辺に隠れていたが、夜に入って、彼の死骸を探し出して供養しようと、戦場を見てまわると、疵を多く負いながらも、命はまだ絶えていなかった。そこで肩に懸けて、青墓の北の山へ連れて行った。たくさんの疵の中で、喉笛を貫いて地面に突き立てた疵が最も致命的な疵だったので、「どうにも助かるはずがない。首を取って行け」と言うけれども、それもさすがに気の毒なので、もしかしたら助かるかもと手当てをしているうちに、落人を探そうと、敵方の武士が手分けをして大声をあげてくる。夜も明け方になってきたし、かないそうもないので、大きな木の空洞にけが人を隠して、二人はまた隠れた。武士は血痕の跡をたどって、そのあたりを探り求めた。木の空洞から中を覗いたけれど、人の足などは見えなかった。結局、探しあぐねて去って行った。その後、黒衣を着た僧が一人、「横蔵から来た」と言って、草の葉を揉んで与えるので、これを服用して、腹の中にたまった血を、ありったけ下して、身体も軽くなり、気持ちも少し助かったと思われた。そうして気がつくとこの僧はもう姿が見えなかった。

 二人がまたやって来て、「どうだ」と、木の中から抱いて出してみると、「これこれの事があって、身体も軽くなったように思われる。自分で歩いて行こう」と言って、本国へ下って行った。折津川の水かさが増して、渡ることが出来ずにとどまっていると、関東へ下る武士と出会い、怪しんで武士たちは彼を搦め取った。一度死ぬはずだった身が、今さら恥をさらすことを悔しく思って、「河に身を投げよう」と、河のそばへ歩み寄ったところ、若い僧が一人、「竜山寺から来た。死んではならぬぞ。自害してはならぬ」と仰せになった。夢かと思えば現実である。けれども、疵も痛むし、日差しも暑い。耐えがたく思われたので、なおも身を投げようと歩み寄ると、またこの僧は縄をおさえて、「死んではならぬぞ。そんなことをしてはいけない」と制止するので、思い留まった。

 熱田神宮の講衆たちや神官などは、皆彼を知っていたので、「身柄を預かりましょう。社頭で講行などを勤めて功績のある人でございます。何々と申す者です」と申したけれども、「名の通った武士だ」と言って許さず、鎌倉へ連行した。北条義時の引見を受けると、「すぐに首を刎ねよ」と命じられ、由比の浜へ連れて行った。例の僧が出て来て、「嘆かなくてよい。死ぬことはないぞ」と仰せになるが、今は最後だと思って、一心に念仏した。

 乱橋という橋のたもとを出て行くところで、長年の知人に出逢った。「どうしたのですか」と、馬をとめて尋ねるので、「杙瀬川で討ち死にするはずだった身が、さらに恥をさらそうと、このような有り様で、今こそ首を刎ねられるでしょう」と言って涙を流す。この人が言うには、「長年の知人でございます。大夫殿の所へ参って願い出て身柄を預かって来ます。しばらくお待ち下さい」と言って、馬を速めて義時のもとへ参って願い出たところ、「汝に預けよう」という命令書をいただいて、すぐに駆け戻り、連れ立って、さまざまに看病して、右馬允は命が助かり、はるかに年をとるまで、本国で生存していた。

 喉笛の疵のせいで、声はしわがれていた。孫などは現存している。その人の養子だった入道が語った話なので、確かな事に違いない。上代にはこういう例もあるが、末の世には滅多にない事だと思われる。夢に現れるのでさえ不思議なのに、本当に仏が出現してお助け下さったご利益の目出たさは、貴くありがたい事である。

 美濃国横蔵の薬師は、比叡山根本中堂の薬師の用材の一部で造ったと申し伝えており、霊験あらたかで知られている。右馬允は長年参詣していた。尾張国の竜山寺は、昔、竜王が一夜のうちに造って供養したが、途中で夜が明けたので、堀は掘りかけになっているとのことで、いまもその跡が見えます。本尊は馬頭観音で、霊験あらたかな仏でいらっしゃる。右馬允はここにも長年参詣し、十八日ごとに『観音経』を三十三巻読誦して奉納していた。こうした因縁によって、助けて下さったのであろう。返す返すありがたいことである。

 

 「注釈」

 今回の史料は薬師・観音の霊験譚で、僧侶の姿をした薬師と観音が、窮地に陥った主人公右馬允を救うという話でした。杙瀬川の戦いで瀕死の重傷を負った主人公の右馬允は、まず横蔵の薬師如来によって命を救われます。その後、体調の回復した右馬允は故郷に戻ろうとするのですが、途中で関東に下る武士に見つかり捕らえられてしまいます。このとき右馬允は、「一度死ぬはずだった身が、今さら恥をさらすことを悔しく」思い、入水自殺を遂げようと決意します。ところが、今度は竜山寺の馬頭観音が僧侶の姿で現れ、「死んではならぬぞ。自害してはならぬ。」と言います。右馬允は傷の痛みや日差しの暑さを原因として、また身を投げようとするのですが、再度「死んではならぬぞ。そんなことをしてはいけない」と僧が制止するので、結局自殺を思い留まったのです。

 さて、今回の自殺未遂ですが、キーワードは「恥」です。右馬允は杙瀬川の戦いで死ぬはずだったのに、生き延びて捕らえられたことを恥だと考えています。そして、こうした恥を晒したことが悔しくて自殺を決意したのです。つまり、原因は恥辱の生起、目的は恥辱からの逃避だったと考えられます。生き恥を晒すことは、死ぬよりも耐え難いことである。こうした意識が、当時の社会に広がっていたのかもしれません。

 そうすると、なぜ捕らえられたことが恥になるのか、という点がまず問題になります。この史料を読むと、捕縛と戦死が対比で描かれていることがわかります。当時、味方のために身命を賭して戦った死傷者は、その忠節によって恩賞を与えられていました。また、見事な戦いぶりや死にざまが、敵方からも賞賛されていたことは、軍記物を見れば明らかです。『保元物語』を分析した大山眞一氏が、「本来、勝利を求められた武士が武運つたなく敗れた場合、華々しい『死にざま』を飾って戦場に散ることが、彼らの戦いに敗れた汚名を相殺するメカニズムであった」と述べているように(「中世武士の生死観(5)」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』10、2009、65頁、http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/journal/no10jp/)、敗戦でも華々しい、雄々しい死にざまを飾れれば名誉とみなされ、反対に捕縛されれば汚名や恥辱を受けることになるのです。

 次に問題となるのが、なぜ恥から逃れるために自死を選んだのか、という点です。処刑(他殺)では恥辱からの逃避は叶わないが、自死を遂げれば恥辱から逃避できる、あるいは恥辱を拭い去れる。このような思考パターンは、どこから生じてきたのでしょうか。これについても、前述の大山氏の指摘を踏まえると、誰しもが容易にできない自死という行為の雄々しいイメージが、恥辱を拭い去るのではないでしょうか。詳細な記述はありませんが、主人公の右馬允にも、過去から未来に続くであろう誇り高い家があったと考えられます。先祖の威光を汚し、子孫に汚名を残すような恥がましい振る舞いはできなかったのでしょう。敗戦・捕縛という汚名や恥辱、家という束縛。これらが右馬允を自殺に向かわせた原因だったと考えられます。