周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

疫神の中世的イメージ (Image of God of pestilence in the Middle Ages)

  応永二十八年(1421)五月二十八日条

          (『看聞日記』2─133頁)

 

    (冷泉範綱ヵ)                  (後小松上皇

 廿八日、正永参語世事、洛中病死興盛、言語道断事云々、此間仙洞有御夢想、相国

  寺門前千頭許群衆、門内欲入、而門主防之追出、前牛声シテ曰、誠

  座禅之所也、不可入、牛共退散、京中乱入了、夢中人云、是コソ疫神ニテ

  候申、御夢覚了、室町殿院参之時被語申、則退出、相国寺へ入御、僧達悉可依

  座之由被仰、大衆依座勤行云々、不思儀御夢也、春日社有怪異、社頭鹿斃死又

  血流云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 二十八日、正永参り世事を語る、洛中にて病死興盛、言語道断の事と云々、此の間仙

  洞御夢想有り、相国寺門前に牛千頭ばかり群衆す、門内へ入らんと欲す、而るに門

  主之を防ぎ追ひ出す、前に進む牛声を出して曰く、誠に座禅の所なり、入るべから

  ずと云ひて、牛共退散し、京中へ乱入し了んぬ、夢中に人云く、是れこそ疫神にて

  候ふと申し、御夢覚め了んぬ、室町殿院参の時語り申され、則ち退出し、相国寺

  入御す、僧達悉く座に依るべきの由仰せらる、大衆座に依り勤行すと云々、不思儀

  の御夢なり、春日社に怪異有り、社頭に鹿斃死し又血流ると云々、

 

 「解釈」

 二十八日、冷泉範綱(ヵ)がやって来て世間話をした。「洛中で病死する人が数多く出た。もってのほかのことである」という。この間、後小松上皇の夢でお告げがあった。相国寺の門前に牛千頭ほどが群衆し、門内に入ろうとした。しかし門主がこれを防ぎ追い出した。先頭を進んでいた牛が声を出して言うには、「やはり座禅の道場である。入ることができないぞ」と言って、牛どもは退散し、京中へ乱入した。夢の中である人が言うには、「これこそ疫神です」と申し、夢が覚めた。室町殿足利義持が院参した時に上皇がお話し申し上げなさり、室町殿はすぐに退出して、相国寺へお入りになった。「僧たちはみな座に集まれ」と仰せになった。僧たちは座に集まり勤行したそうだ。不思議な夢である。春日社で怪異があった。社頭で鹿が斃死し、また血が流れたという。

 

 May 28th, Reizei Noritsuna came and talked. He said, "A lot of people died in sickness in Kyoto. During this time, Gokomatsu Joko (the Emperor Emeritus) dreamed of God's message. Thousand cows gathered in front of the gate of Shokokuji temple and tried to enter the gate. But the chief priest kicked them out. The leading cow said, "This is a sanctuary. We can not enter." The cows ran away and burst into the city. The Emperor Emeritus woke up when the one in the dream said, "It is the god of pestilence." As General Ashikaga Yoshimochi visited the Emperor Emeritus, the Emperor Emeritus told the General this dream. The general immediately exited and came to Shokokuji temple. I heard that he gathered the monks and made them pray. It is a strange dream. A strange event happened at Kasuga Taisha Shrine. I heard that a deer died in the precinct and blood flowed again.

 (I used Google Translate.)

 

*解釈は八木聖弥「『看聞日記』における病と死(2)」(『Studia humana et naturalia』38、2004・12、https://kpu-m.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=931&item_no=1&page_id=13&block_id=21)、鈴木亨『日本史瓦版』(三修社、2006)、清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館、2008、133頁)を参照しました。

 

 「注釈」

 中世人が疫神を牛の姿でイメージしていたとは知りませんでした。前掲清水著書によると、「疫神」=「牛」というイメージは、後小松上皇の個人的なものではなく、中世人の常識となっていたようです。似たような夢の記載は、『経覚私要抄』(宝徳2年4月)にも記されているそうです。

 それにしても、なぜ牛なのでしょうか。これについても清水著書で説明されています。

 

 「日本中世で最も有名な疫神である牛頭天王は、その名のとおり『牛』の姿をしていたり、『牛』にまたがったりするものとされていた。おそらく当時の人々は、この牛頭天王と疫病の連想から、人々を悩ます疫神の正体を『牛』のイメージで造形してたのだろう。」

 

 目に見えない病気の正体を、目に見える何かに象徴化して理解しようとする。現代で言えば、ウイルスや虫歯菌のようなものを、三又の槍を持った悪魔のようなキャラ(バイキンマン)で表現するようなものでしょうか。人間のやっていることは、昔からあまり変わらないようです。