五 毛利輝元書状
(通直)
就二今度河野殿会合一、数日令二逗留一之處、毎事御馳走祝着候、殊往代之證文等
(元秀) (元勝)
銘々披二見之一、感入存候、猶赤川十郎左衛門尉粟屋右京亮可レ申候、恐々謹言、
(天正十二年)(1584)
六月廿五日 輝元(花押)
福成寺 人々御中
「書き下し文」
今度河野殿との会合に就き、数日逗留せしむるの処、毎事御馳走祝着に候ふ、殊に往
代の証文など銘々之を披見し、感じ入り存じ候ふ、猶ほ赤川十郎左衛門尉・粟屋右京
亮申すべく候ふ、恐々謹言、
「解釈」
この度、河野殿との会合について、数日逗留したところ、すべてのことでご尽力くださり満足に思っています。とくに昔の証文などをそれぞれ拝見し、感心し申し上げました。なお、奉行人の赤川十郎左衛門尉と粟屋右京亮がお礼を申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「河野通直」
─ ?〜一五八七(?〜天正十五)。牛福丸・四郎・伊予守・兵部少輔。父は河野通吉。宗家の弾正少弼通直が元亀三年(一五七二)に死去し、伊予守通直が河野家臣団を率いて、長宗我部氏・三好氏の侵入に対応する。とくに土佐長宗我部元親の侵入に苦しみ、安芸の毛利氏らに支持を求めたが、家臣の内紛もあって態勢の好転は望めず、ついに元親に降伏、伊予一国は長宗我部氏の支配に属した。天正十三年(一五八五)、豊臣秀吉の四国派兵があり、通直は長宗我部勢の前衛として湯築(月)城に籠って小早川隆景の軍と対戦したが、隆景の勧めにより降伏。伊予一国は隆景に与えられ、河野家臣団とくに水軍は小早川氏に従い、通直は隆景の本領安芸竹原に仮寓を与えられたが、天正十五年、同地で死去(『戦国人名事典』新人物往来社)。