解題
石井正樹家は江戸時代には賀茂郡中四日市(東広島市西条町)において小倉屋と称していた。同家系図によると防州都濃郡と長州厚東郡万倉口にあった石井和泉守の子孫兵衛尉元家が志和内村(東広島市志和町)寺山城主、東西条佐々村石堂村寺家村(西条町)領主となるにおよんでこの地に定着した。その子蔵人賢家はさらに高田郡中馬村(吉田町)領主もあわせたという。同氏は、はじめ大内氏に従ったが、後に毛利氏に属した。
一 毛利輝元宛行状
宗勝備後給之事、爲二屋敷分一遣レ之候、全可二知行一候、何茂似相之地加引重而
(粟屋元勝)
可二宛遣一候、委細粟右可二申与一候、謹言、
元亀四(一五七三)
五月七日 輝元(花押)
(捻封ウハ書)
「
(宗勝ヵ)
石井弥三郎殿 輝元
」
「書き下し文」
宗勝に備後を給ふの事、屋敷分として之を遣はし候ふ、全く知行すべく候ふ、何れも
似相の地を加へ引き重ねて充て遣はすべく候ふ、委細粟右申し与ふべく候ふ、謹言、
「解釈」
石井弥三郎宗勝に備後の中で所領をお与えになること。屋敷分としてこれを給与します。知行を全うしなければなりません。いずれもふさわしい地を勘案し、重ねて充てがうつもりです。詳細については粟屋元勝が与え申すはずです。以上、謹んで申し上げます。