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いつまで経っても修行中

石井文書(石井昭氏所蔵)1

解題

 石井昭家は先の石井正樹家と同族とみられる。その系図によると桓武平氏の出で、二十一代駿河太郎重時までは名越を称していたが、元弘年中北条高家の密意を受けて芸備を経回して、志和内村(東広島市志和町石井城に住むことになって以来、石井を称することになったという。ついで廿二代 石井内蔵允康永(扶テ大内戦功アリ)、廿三代 石井平左衛門尉元家(享禄天文ノ始也) 廿四代 石井九郎三郎宣家 廿五代 石井蔵人賢家(天文ノ末マデ内村城主也)となっている。

 東広島市八本松町石井準一氏所蔵文書は本文書の写である。石井昭家系図が二十五代で終わるのに対して石井準一家系図は二十八代まで記し、廿六代 石井和泉守房家(正力村ニ住居) 廿七代 石井弥三郎宗勝 廿八代 石井孫兵衛尉勝家としている。

 

 

    一 大内氏奉行人連署奉書(切紙)

 

 就去月廿九日檜山十郎左衛門尉〈平賀被官〉成敗儀、於彼要害馳走之次第、

                 (弘中)

 殊郎従已下数輩或討死、或被疵通、隆兼注進状之趣遂披露訖、神妙之由所

 被仰出也、仍執達如件、

       (1532)

       享禄五年五月十九日     丹波守(花押)

                     三河守(花押)

            (元家)

          石井平左衛門尉殿

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 去月二十九日檜山十郎左衛門尉〈平賀被官〉成敗の儀に就き、彼の要害に於いて馳走の次第、殊に郎従已下数輩或うは討ち死にし、或うは疵を被るの通り、隆兼の注進状の趣披露を遂げ訖んぬ、神妙の由仰せ出ださるる所なり、仍て執達件のごとし、

 

 

 「解釈」

 去る四月二十九日の檜山十郎左衛門尉〈平賀氏の被官〉成敗の件について、その城で戦に奔走した事情、とくに郎従など数人が討ち死にしたり、傷を被ったりしたことは、弘中兼隆の注進状の内容をもって大内義隆様に披露を遂げた。感心なことであるとの仰せである。よって、以上の内容を下達する。

 

 

 「注釈」

三河守」─弘中隆兼か。?〜一五五五(?〜弘治元)。(中務丞・三河守)。大内氏

      家臣。父は興兼。天文十二年(一五四三)、大内義隆の命により安芸国西

      条槌山城にあって備後の情勢を探る。大永五年(一五二五)、天文五年、

      同十年安芸に出陣。安芸守護代。天文二十年、陶晴賢に属して大内義長に

      仕える。同二十三年、玖珂郡岩国に出陣。弘治元年(一五五五)、晴賢の

      指示により江良房栄を誅殺。また厳島古城山麓に出陣して毛利軍と戦い敗

      死した(『戦国人名事典』新人物往来社)。