周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井昭氏所蔵)2

    二 石井元家合戦手負注文(切紙)

 

 (證判)    大内義隆

 「一見了、   (花押)」

   (マヽ)

 石井平右衛門尉元家謹言上

   欲早賜 御證判後代亀鑑軍忠状事

                   賀茂郡

 右、去年〈天文五〉十一月七日、於藝州高屋平賀蔵人大夫興貞要害頭崎詰口

 郎徒僕従被疵人数、備左、

   郎徒

    天野弾正忠〈矢疵貳ヶ所左膝十一月七日〉

    天野孫十郎〈矢疵左臑同日〉

    長尾与三右衛門尉〈矢疵左肪同日〉

   僕従

     六郎衛門〈鑓疵左腕同日〉

    以上

     (1536)

     天文六年四月廿四日        元家(花押)

         (隆兼)

       弘中々務丞殿

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 石井平左衛門尉元家謹んで言上す

  早く御証判を賜り後代の亀鏡に備へんと欲する軍忠状の事

 右、去年〈天文五〉十一月七日、芸州高屋平賀蔵人大夫興貞の要害頭崎の詰口に於いて、郎従・僕従疵を被る人数、左に備ふ、(後略)

 

 「解釈」

 石井柄左衛門尉元家が謹んで申し上げる、早く大内義隆様のご証判をいただき、のちの証拠として役立てようとする軍忠状のこと。

 右、去年〈天文五年〉(1535)十一月七日、安芸国高屋の平賀蔵人大夫興貞の要害、頭崎城の詰口で、傷を被った郎従・僕従の人数を左に記す。(後略)

 

 「注釈」

「高屋」

 ─「和名抄」の賀茂郡高屋郷を母体とする国衙領で、現高屋町域のうち造賀・小谷を除く地域にあたると思われる。京都東寺大勧進知元に宛てた元応元年(一三一九)八月十二日付後宇多上皇院宣東宝記)に「高屋本保事、可被止国衙之縡、於余田者付国衙可令知行給」とあり、永仁五年(一二九七)安芸国が東寺造営料国とされたことに伴い、高屋余田などがその料に充てられたが、高屋本保はその対象から除かれている。高屋本保の領有関係は不明であるが「康富記」宝徳元年(一四四九)九月四日条には大炊寮領とされている。大炊寮領になった時期は正治元年(一一九九)頃とも考えられる(同年九月八日付官宣旨案「師守記」紙背文書)。南北朝時代、中原家が高屋保の年貢収納にかかわっている(師守記)のは、同家が大炊頭を世襲していたためであろう。高屋余田については延文元年(一三五六)まで東寺の領有が確認できる(同年十一月八日付「後光厳天皇綸旨」東寺百合文書)。地頭は平賀氏で、弘安元年(一二七八)十二月十五日付平賀惟長譲状(平賀家文書)によると、惟長は弟是致に高屋保を譲っており、平賀氏系譜(同文書)は文永二年(一二六五)に没した平賀氏祖資宗(惟長の祖父)の時から当保を領したとする。平賀氏の高屋保地頭職所有は弘安元年以後代々の譲状(同文書)によって断絶することなく確認できるが、貞治二年(一三六三)六月二十九日付の小早川重景自筆譲状(小早川家文書)、応永三十四年(一四二七)十一月十日の小早川弘景自筆譲状(同文書)などに高屋保の名が現れるので、南北朝時代から竹原小早川氏が一時当保の領有権を得たのかもしれない。しかし、宝徳元年幕府が高屋保の大炊寮領「興行」を決定した時、平賀氏が当保を建武(一三三四─三八)以来の勲功の地であると訴えたため、幕府は大炊頭清原業忠に替地を与えることを約束したように(「康富記」同年九月四日条)、平賀氏の高屋保領有は動かしがたい既成事実となっていた。

 平賀氏は系譜では南北朝期の貞宗の代まで出羽に住したとされるが、貞宗は観応二年(一三五一)安芸で幕府使節として活躍(同年四月九日付「将軍御教書」平賀家文書)、彼の父兼宗も南北朝初頭に安芸で参戦しているので建武三年十一月七日付「足利直義御感御教書」平賀家文書)、おそらくこの頃本拠を出羽から高屋保に移したのではないかと思われる。なお「芸藩通志」は惟長の時、出羽を弟惟兼に譲り、弘安年間高屋保に移り御薗宇城を築いたとする(「高屋保」『広島県の地名』平凡社)。

 

「頭崎城跡」

 ─現東広島市高屋町貞重。標高五〇四・三メートル、比高二百メートルの頭崎山頂に築かれた平賀氏の居城。県指定史跡。平賀氏系譜(平賀家文書)の興貞の項に「大永三年六月、尼子伊予守経久強入東西条、責落鏡城、不幾而帰国候由、是当国不安静之間、同年之冬於神前取鬮、任其旨誘頭崎山為要害、同五年大内左京大夫義興自身発軍、陶尾張守興房為先勢而着世能、次第々々発向ト雖、当城依山高岸嶮、軍勢終不越境目、開運属無為、故至子孫亦弥奉崇敬大明神、祭祀不可怠者也」とあり、安芸における尼子勢力が一気に強まり、平賀氏自身も大内方から尼子方に寝返った大永三年(一五二三)の政治的緊張のなかで当城が築かれたことが知られる。それまで拠っていた城山城の戦略的弱点を考えて、版図の北に偏してはいるが、御薗宇・白山両城から等距離にあり、白山城の二倍の比高をもち、高屋保を一望のもとにできる頭崎山が新城に選定されたのであろう。

 遺構は山頂に一辺約三五メートルの正方形に近い甲(つめ)の丸(本丸)があり、その南に小さい二の丸、さらに南に細長い三の丸を配する。三の丸の東に、系譜に見える「大明神」にあたると思われる頭崎神社の鎮座する郭があり、その南に太鼓の段、東には井戸がある。甲の丸の北に石垣で三つに画された西の丸、東に延びる尾根城には稽古場・馬乗場と称する細長い郭、三の丸西南には岩石の露出する煙硝の段などその他数十の郭を有機的に配し、随所に堀切・竪堀・土塁・石垣などを築いて防備を固めており、その規模・構造から戦国期山城の典型といる。大永五年の陶興房の来襲については、興房がこの年志芳庄の天野氏を降伏させているが、あるいは一軍を頭崎城に差し向けたのかもしれない。頭崎築城後も平賀弘保は白山城に止まって頭崎城には嫡子興貞を置いたが、弘保が大内方に復帰しても興貞は尼子氏と結び興貞の子隆宗は父との不和から弘保に従った。この対立は天文五年(一五三六)表面化し、この年の八月ごろから両軍とも戦闘態勢を整え(年欠八月九日付「大内義隆書状」天野毛利文書)、十一月七日頭崎城で衝突した(天文六年四月二十四日付「石井元家合戦手負注文」石井文書)が、交戦の結果は不明。同十年安芸における尼子方の最大勢力であった武田氏が滅び、尼子勢力は急速に衰えるので、興貞も弘保に降ったのではないかと思われる。

 天文十八年平賀隆宗が神辺城(跡地は現深安郡神辺町)攻めの陣中で病死、弘保は隆宗の弟広相を立てようとしたが、大内義隆は小早川常平の次男で自分の養子としていた隆保を強引に後嗣として送り込んだ。同二十年陶晴賢が義隆を倒し、毛利元就に隆保攻撃を要請、元就は同年九月四日頭崎城に兵を送ったが、弘保は隆保を支援せず、城は落ちた(天文二十年十月二日付毛利元就同隆元連署感状「閥閲録」所収渡辺太郎左衛門家文書)。隆保はこの時城を出て吉川の槌山城に入り、城将菅田宣真らとともに自害したとする説もある(陰徳太平記)(『広島県の地名』平凡社)。