周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 33 ─吾妻鏡2(死刑の予期と自殺)─

  元暦二年(一一八五)五月二十七日条

                    『吾妻鏡』第四(『国史大系』第三二巻)

 

 廿七日己酉、源藏人大夫頼兼申云、去十八日、盗人令推參禁裏、盗取晝御座御劒、藏人并女官等動揺求之、頼兼家人武者所久實、追奔于左衛門陣之外生虜之、奉返置御劒於本所、件犯人被搦取之時、欲自殺之間、已半死半生之由、只今有其告云々、如然之勇士、殊可被加賞之由、二品被感仰、則取出劒、称可与彼男、賜頼兼、此人御氣色快然云々、

 

 「書き下し文」

 廿七日、己酉、源蔵人大夫頼兼申して云く、去んぬる十八日、盗人禁裏に推参せしめ、昼御座の御剣を盗み取る、蔵人并びに女官ら動揺し之を求む、頼兼の家人武者所久実、左衛門の陣の外に追奔し之を生虜り、御剣を本所に返し置き奉る、件の犯人搦め捕らるるの時、自殺せんと欲するの間、已に半死半生の由、只今其の告げ有りと云々、然るがごときの勇士、殊に賞を加へらるべきの由、二品感じ仰せらる、則ち剣を取り出だし、彼の男に与ふべしと称し、頼兼に賜ふ、此の人御気色快然と云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』2、吉川弘文館、2008)

 二十七日、己酉。源蔵人大夫頼兼が申して言った。「去る十八日、盗人が禁裏に押し入り昼の御座にある御剣を盗み取りました。蔵人や女官たちが騒いで、捜して求めていましたので、私の家人である武者所久実が左衛門の陣の外まで賊を追って走り、賊を生け捕り、御剣を元の所に返し置き申しました。この犯人は搦め捕られた時、自殺しようとして、すでに半死半生である、という知らせが、只今ございました」。「このような勇士は特に恩賞を与えられるべきだ。」と二品(源頼朝)は大変お褒めになり、すぐに剣を取り出して「その男(久実)に与えよ。」と仰って、頼兼に賜った。この頼兼は、大変なお気に入りとなったという。

 

 「注釈」(『現代語訳 吾妻鏡』2、吉川弘文館、2008)

源頼兼」─生没年未詳。源頼政の男。蔵人を経て従五位下に叙せられ、源蔵人大夫と

      称す。内裏の守護に当たっていた。

「昼御座」─「ひるのござ」とも。天皇が昼間に出御する御座。平安内裏の清涼殿の母

      屋の中ほど。

 

 

*短い記事ですが、今回は盗人が捕縛時に自殺を試みたという記事です。以前「日本の古代7」で、禁獄された盗人の藤原保輔が自殺したという記事を書きましたが、この状況と似ています。平安時代では、盗人は死刑に処されることがあったため、捕縛や処刑の苦痛から逃れるために自殺を遂げたのではないか、と指摘しました(「日本の古代4・6・7」「古代史のまとめ」)。ただし、弘仁十三年(八二二)二月七日官符(『類聚三代格』巻二十所収)で、強窃二盗についてはすべて徒刑とされたそうです(戸川点『平安時代の死刑』吉川弘文館、2015)。今回の史料は元暦二年(一一八五)のものですから、治承・寿永の内乱中の事件になります。頼朝権力は治安維持のために、盗犯についても厳しい処罰で臨んでいたのかもしれません。

 ところで、中世の盗犯については、笠松宏至氏「盗み」(『中世の罪と罰東京大学出版会、1983)という有名な研究があります。この研究によると、中世では「ぬすみ」に対して対極的な法思想が長期にわたって二つながら存在しつづけたそうです。一つは、公家法や武家法にみられる「窃盗軽罪観」で、もう一つは、「地下の法」(在地法)やそれを取り入れた本所法にみられる「窃盗重罪観」です。どのような処罰をもって重罪、あるいは軽罪とみなすかはいろいろと議論がありそうですが、ここで盗犯に対する刑罰の種類を示しておくと、盗んだ金額・物品によって、賠償・拘禁・所職没収・家屋焼払・追放、そして死刑などに処されることがありました。死刑に注目してみると、公家法や武家法では見当たらず、在地法や本所法で執行されたそうです。ちなみに、捕縛時に殺害されることと、捕縛後に死刑に処されることは分けて考えなければなりません。

 前述のように、私は盗犯の刑罰が死刑であるからこそ、盗人はその苦痛や恐怖から逃れるために自殺を選んだ、と考えたわけですが、そうすると盗犯の刑罰が死刑でなくなったら、理屈では盗人は自殺を選ばないことになります。損害賠償から逃れるために自殺を選ぶというのは、なかなか考えられることではありません。盗犯軽罪法(公家法・武家法)と盗犯重罪法(本所法・在地法)のどちらで盗人が裁かれるかによって、自殺者数の多寡も変わるのかもしれません。今後の事例紹介で検証してみようと思います。