周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井昭氏所蔵)3

    三 大内義興感状(切紙)

 

   (安藝安南郡                 (興房)

 去九日熊野要害落居之時、被矢疵〈左腕〉之由、陶尾張守注進状一見畢、尤

 神妙之至也、弥可戦功之状如件、

     (1527)            (義興)

     大永七年二月十三日       (花押)

         (宣家)

       石井九郎三郎殿

 

 「書き下し文」

 去んぬる九日熊野要害落居の時、矢疵〈左腕〉を被るの由、陶尾張守の注進状を一見し畢んぬ、尤も神妙の至りなり、いよいよ戦功を励ますべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 去る二月九日、尼子方の熊野要害攻略が落着したとき、左腕に矢疵を受けたことは、陶尾張守の注進状で一見した。いかにも感心なことである。ますます戦功を挙げるべきである。

 

 「注釈」

「熊野村」─現熊野町中溝・城ノ堀一帯。瀬野川の支流熊野川の上流にある標高二〇〇

      メートル前後の小盆地の大半を占める。周囲を四〇〇─六〇〇メートル級

      の山々に囲まれるが、熊野川下流熊野跡村・上瀬野村(現広島市安芸

      区)方面はもとより、盆地の南半から二河川が南下しているので、呉方面

      への交通は比較的容易であり、また、矢野峠を越えれば一〇キロほどで広

      島湾岸の矢野村(現安芸区)に達する。東の黒瀬盆地(現賀茂郡黒瀬町

      には亀割峠や笹ヶ峠などで通じていた。当地から四周に通じる交通路は、

      各時代を通じて主要路であった瀬野川沿いの道の間道として機能したと思

      われる。「芸藩通志」に「此村の名は、村内に熊野社を置く、故に名くか

      と思ゆれど、中古には橋賀村とも呼びぬ、はしかは端辺の意にて、郡の橋

      に居る義によるにや、さればくまのも、もとは隈の義、後村名によりて、

      熊野社を勧請せしやも知べからず」と記すが、熊野村を橋賀村と称した例

      は見当たらない。

      統治は熊野跡村とともに、建治三年(一二七七)のものと思われる小槻有

      家申状(壬生家文書)に「御祈願所領安芸国阿土熊野保ハ、朝治(小槻)

      か□□(曽祖)父広房、文治四年ニ本領主貞宗か寄文を得て多年知行、建

      久七年ニハしめて宣旨を申下し候」とみえる阿土熊野保にあたり、文治四

      年(一一八八)本領主某貞宗から小槻広房に贈与され、建久七年(一一九

      六)壬生官務家領として正式に立保されたことがわかる。御祈願所領とあ

      るから、本家職は皇室にあり、小槻氏の権益は領家職であろう。文永十年

      (一二七三)三月十九日付勘解由次官奉書(同文書)には阿土熊野庄の名

      がみえる。同庄の名は南北朝期以降には壬生家文書には見えず、この頃か

      ら官務家の支配から離れたものと思われる。

      その後熊野盆地は際立った在地領主がなく、北の阿曾沼、西の野間両氏の

      勢力圏の交錯するところであり、大内氏の安芸における拠点東西条(現東

      広島市賀茂郡一帯)と直結する位置にあることなどから、大内氏の支配

      下にあった可能性が強い。大永七年(一五二七)二月九日大内氏が熊野要

      害(盆地中央の土岐城か)を攻略しているのは(同年二月十日付「天野興

      定合戦分捕手負注文」天野毛利文書)、この時尼子方になっていた阿曾沼

      氏が統治を占拠していたためとも考えうる。熊野要害陥落後、熊野地域が

      大内氏領であったことは天文十五年(一五四六)正月二十九日付大内氏

      行人連書状(「閥閲録」所収神代六左衛門家文書)によってもわかる。こ

      の頃当地の嵩山城には槌山城(跡地は東広島市)の菅田光則と同族の菅田

      豊後守が拠っていたが(芸藩通志)、天文二十年、大内義隆陶晴賢に倒

      された際、両菅田氏は陶氏に対したため、陶氏と結んだ毛利氏に攻められ

      滅んだ。

      以後は毛利氏の所領となり、家臣に給地として分与され、弘治三年(一五

      五七)には平佐就貞が熊野村草使(村役人)に任じられた(同十一年七月

      付「毛利隆元判物」長府毛利文書)。この時熊野村は「三百貫之所」とい

      われた(弘治四年五月七日付「毛利隆元宛行状」同文書)。文禄元年(一

      五九二)毛利氏は熊野村の家臣給地の多くを厳島社に与えたが、社家・供

      僧・内侍領の総計は五〇〇石を超え(元和五年七月十三日付「厳島社社家

      供僧内侍三方給地等付立」厳島野坂文書)、農民戸数七〇・人数一八三を

      数えた(天正二十年三月二十五日付「熊野村厳島社家内侍領人掃帳」同文

      書)。ところで、戦国期の史料の多くに「西条熊野」とあり、熊野も西条

      (現東広島市一体)の内と意識されていたことがわかる(『広島県の地

      名』平凡社)。