周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ハーレム内の憂鬱2

  応永三十一年(1424)五月十二日・十五日・十六日・二十日条

                 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─36〜37頁)

 

 十二日、晴、入夜大雨降、行豊朝臣参語世事、仙洞女房事御所中女房達皆御糺明、随

  而卿相雲客十人許ツヽ結番被書告文、三ケ日殿上ニ被召置祗候被守失云々、四辻宰

  相中将告文案持参之間、是失之由被仰、則被追籠、室町殿被執申起請之告有九ケ條

  之法、此案文程の事ハ失念歟、不可為失之由被申宥、有御免云々、男共起請了、女

  中ニ又可被書云々、但二位殿はかりをは自禁裏可有御免之由被申、仙洞ハ只可書之

  由被仰、雖然禁裏再三被申之間御免云々、殿上昼夜祗候之輩、周章之式是非忙然

  云々、前代未聞事歟、

 

 十五日、晴、

  (中略)

  抑仙洞告文事、外様小番衆堂上楽人皆可被書云々、隆富朝臣外様小番衆也、加人数

  可書告文云々、雖無其咎周章之由申不便也、

  (後略)

 

 十六日、晴、

  (中略)

  抑仙洞告文事近習三番衆四十余人已書了、然而猶逆鱗不休、一番衆猶御不審之間、

  起請再返可被書、今度者七ケ日殿上祗候可被守其告云々、凡外様老若悉可被書之由

  御沙汰云々、

 

 廿日、晴、

  (中略)

  仙洞女中猥雑事、一番衆告文再返已書了、三日殿上祗候、無殊失之間、先被

  閣云々、大納言典侍甘露寺被預置云々、彼大納言典侍之姉二位殿局祗候、

  甘露寺青侍男密通、里へ出之時会合云々、露顕之間、青侍男欲召捕之処、彼

  女房相伴逐電畢、依之大納言典侍好色振舞露顕云々、台所別当之局親小兵衛

  督勅勘籠居云々、為局子間被懸其罪、此小兵衛土岐宮内少輔息女也、仍与安

  知音之間、別当密通云々、

 

 「書き下し文」

 十二日、晴る、夜に入り大雨降る、行豊朝臣参りて世事を語る、仙洞女房の事御所中の女房達を皆御糺明す、随ひて卿相雲客十人ばかりづつ結番し告文を書かせらる、三ケ日殿上に召し置かれ祗候させ失を守らせらると云々、四辻宰相中将告文案を持参するの間、是れ失の由仰せられ、則ち追ひ籠めらる、室町殿起請の告に九ケ条の法有るを執り申さる、此の案文のほどの事は失念か、失と為すべからざるの由申し宥められ、御免有りと云々、男ども起請し了んぬ、女中にまた書かせらるべしと云々、但し二位殿ばかりをば禁裏より御免有るべきの由申さる、仙洞はただ書かすべきの由仰せらる、然りと雖も禁裏再三申さるるの間御免と云々、殿上に昼夜祗候の輩、周章の式是非忙然と云々、前代未聞の事か、

 

 十五日、晴る、(中略)抑も仙洞告文の事、外様小番衆・堂上・楽人皆書かせらるべしと云々、隆富朝臣外様小番衆なり、人数に加へ告文を書くべしと云々、其の咎無しと雖も周章の由申すこと不便なり、

 

 十六日、晴る、(中略)抑も仙洞告文の事、近習三番衆四十余人已に書き了んぬ、然れども猶ほ逆鱗休まらず、一番衆猶ほ御不審の間、起請再び返し書かせらるべし、今度は七ケ日殿上に祗候し其の告を守らるべしと云々、凡そ外様老若悉く書かせらるべきの由御沙汰すと云々、

 

 二十日、晴る、(中略)仙洞女中猥雑の事、一番衆の告文を再び返し已に書き了んぬ、三ヶ日殿上に祗候し、殊なる失無きの間、先ず閣かると云々、大納言典侍甘露寺に預け置かると云々、彼の大納言典侍の姉は二位殿局に祗候し、甘露寺の青侍男と密通す、里へ出づるの時会合すと云々、露顕するの間、青侍男を召し捕らんと欲するの処、彼の女房を相伴ひ逐電し畢んぬ、これにより大納言典侍も好色の振舞露顕すと云々、台所別当局の親小兵衛督も勅勘籠居すと云々、局子たるの間その罪を懸けらる、この小兵衛は土岐宮内少輔の息女なり、仍て世保の知音の間、別当局も密通すと云々、

 

 「解釈」

 十二日、晴れ。夜になって大雨が降った。世尊寺行豊朝臣がやってきて世間話をした。仙洞の女房のことで、禁裏の女房たちも全員ご糺明になった。そこで、公卿や殿上人十人ほどずつ、順番を決めて交代で起請文を書かせなさった。三日間院の御所に呼んで祗候させ、その異変を監視させなさったという。四辻宰相中将季保が起請文の案文を持参したので、「これぞまさしく異変である」と仰せになり、すぐに閉じ込められた。室町殿足利義持が、起請の異変に九ケ条の法があるのを後小松上皇にご執奏になった。「今回の案文を提出した件は、四辻季保が正文を提出しなければならなかったことを忘れていたのでしょう。異変だと思ってはなりません」と宥め申しあげなさり、上皇はお許しになったそうだ。男たちは起請文を書き終わった。女中にはまた書かせる予定だという。ただし、二位殿日野西資子だけは禁裏からお許しになるべきだと申し上げなさった。上皇は「ただ書かせなければならない」と仰せになった。しかし、禁裏が再三申し上げなさったので、お許しになったという。宮中に昼夜祗候する人々のあわてふためく様子に、あきれてしまったそうだ。前代未聞のことであろう。

 

 十五日、晴れ。(中略)さて、仙洞起請文の件であるが、外様小番衆・堂上家・楽人はみな書かせられなければならないという。西大路隆富朝臣は外様小番衆である。(起請文を書く)人員に加えられ、起請文を書かなければならないそうだ。密通の咎はないけれども、あわてふためいていると申していることは気の毒である。

 

 十六日、晴れ。(中略)さて仙洞起請文の件であるが、近習三番衆四十人余りがすでに起請文を書き終わった。しかし、依然として上皇のお怒りは休まらず、一番衆についてはさらに御不審であったので、起請文を再び返し、書かせなさる予定である。今回は七日間院の御所に祗候し、起請文の異変を監視されるはずだという。だいたい外様小番衆は老いも若きもみな起請文を書かせられなければならない、とご命令になったそうだ。

 

 二十日、晴れ。(中略)院の女中の猥雑のこと。院中の一番衆の起請文はすでに書き終わっており、再び戻された。一番衆は三日間仙洞に祗候し、たいした起請の失もなかったので、まず彼らは除外されたという。大納言典侍甘露寺家に預け置かれたそうだ。この大納言典侍の姉は、二位殿の局日野西資子に祗候し、甘露寺の青侍の男と密通した。生家へ出かけたときに密会していたという。この件が露顕したので、青侍の男を召し捕らえようとしたが、この女房と一緒に逐電してしまった。この件により、大納言典侍も淫らな振る舞いが露顕したそうだ。台所別当の局の親である小兵衛督も勅勘を蒙り、蟄居したという。台所別当の局は小兵衛督の子であるので、その罪をかけられた。この小兵衛は土岐宮内少輔の息女である。よって、世保土岐持頼の知り合いであったので、別当の局と密通したそうだ。

 

 「注釈」

「外様小番衆」

 ─仙洞外様小番衆。仙洞小番制を専門とした研究はよくわかりませんが、禁裏小番制については多くの研究があります。最近のものでは、井原今朝男「廷臣公家の職掌と禁裏小番制」(『室町廷臣社会論』塙書房、2014)があり、従来の研究をまとめるとともに、新たな事実を指摘されています。この研究によると、小番制には「外様番」と「内々番・御前番・近臣番」の二形態があり、勤務日の多寡によって区別されていたようです。文明11年(1479)土御門内裏への還幸を契機に文亀2年(1502)までの間に、鬼間・黒戸を詰所とする近臣番と、殿上の下侍を詰所とする外様番とに区別されたそうです。小番衆の職務は、昼夜の祗候・警備と和歌・連歌会の開催、禁裏文庫の復興のための書写活動でした。仙洞小番衆の職務も、このようなものであったのかもしれません。

 

「九ケ条」

 ─御成敗式目の追加法七三条(文暦二年閏六月二十八日)に記された「失」の一覧。これについては、清水克行『日本神判史』(中公新書、2010、16頁)で詳しく解説されているので、ここではその要点をまとめておきます。

 告文とは起請文のことで、裁判で有罪か無罪か判断しかねる案件や、双方の主張が真っ向から対立し、どちらが真実であるか容易に究明できない場合、彼らに自身の主張にウソ・偽りがないと宣誓する起請文を書かせ、その後、宣誓者を一定期間、神社の社殿に参籠させて、その間に彼らの身体や家族に異変が現れないかどうかを監視させることを「参籠起請」と呼ぶそうです。

 「失」「告」というのは、参籠中に起きる異変のことで、起請文の内容に違犯している者には神罰・仏罰が当たり、必ず自身の身体や家族に異変が生ずるはずだと考えられていたそうです。

 「九ケ条の法」とは、次のようなものでした。

   ①鼻血が出ること。

   ②参籠中に病気にかかること(ただし、もともとの病気は除く)。

   ③トンビやカラスに尿をかけられること。

   ④ネズミに衣服をかじられること。

   ⑤身体から出血すること(楊枝を用いたとき、生理による出血、痔病は除く)。

   ⑥身内に不幸があること。

   ⑦父親や子どもが犯罪を犯すこと。

   ⑧飲食の際にむせること(ただし、背中を叩かれたほどのむせ方)。

   ⑨普段乗っている馬が死ぬこと。

 

 

*実はこの4年前、応永27年(1420)9月16日にも院侍左衛門二郎が女官と密通し、懐妊させるという事件を起こしています。当初、左衛門二郎はその妻とともに御所から追放されるという寛大な処分を受けただけだったのですが、彼は後小松上皇の勅免をもらおうと考え、とうとう直に上皇に訴えようとしたのです。彼は仙洞の門番衆に召し捕られ、最終的には斬首に処されました(『康富記』応永27年9月16・17日条、『看聞日記』同年9月20日条)。今回の事例では、斬首という厳しい処罰は見えていないのですが、当事者たちは密通が露顕するとすぐに逐電しているので、ひょっとすると死刑を恐れていたのかもしれません。

 さて、こうした密通事件の分析を通して、天皇上皇の女房衆処罰権について言及したのが、井原今朝男「室町戦国期における天皇権力の二面性」(『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012)です。この研究によると、「室町期の天皇が住む禁裏内での女房は、天皇の家父長制的支配権の下にあるものとして天皇の所有物であったから、処刑することも懐妊させることも天皇の自由であった」そうです。また、後小松上皇称光天皇の凶暴性については、その個人的な気質として語られてきたのですが(桜井英治「神慮による政治」『室町時代の精神』日本の歴史12、講談社、2001、93頁)、むしろ天皇家の家父長制的権力の凶暴性を物語るものだとされています。

 複数の密通が一度に発覚したことによって、怒りのおさまらない後小松上皇は、その他の密通者を見つけるために、仙洞御所に出入りする女官や廷臣たちに起請文を書かせ、交代で三日間、強制的に御所内に詰めさせて、その間に身体に変調が訪れるかどうか監視しようとしました。周囲の者が次々と自分を裏切ってゆくなかで、後小松上皇は哀れなほど猜疑心の虜になっていたようです(清水克行『日本神判史』中公新書、2010、35頁)。

 

*追記

「家父長制」

 ─〔古代〕父ないし家長あるいは伝統的「家」がもつ権威に、家族成員・家内従属民が恭順する体制。法的には父の親権・夫権・主人権・所有管理権などに支えられ、その形態は権威の所在によって多様であり、同じ社会でも階層によって差がある。(中略)現在、家父長制は院政期以降に成立するという説が優勢である(明石一紀)。

 〔中世〕マックス=ウェーバーによれば、「伝統的支配」のもっとも純粋な形態が家父長的支配であるとし、それを成り立たせる要素は伝統の権威・神聖性に対する恭順であるという。さらに、この家父長制の展した類型の一つが家産制であると考えた。(中略)一九八六年(昭和六十一)には「比較家族史学会」に発展した。この学会の当初からのテーマが「家父長制」であり、日本ではじめて学際的検討が行われた。この研究の中で飯沼賢司は中世を中心に家父長制理論を整理検討し、家父長権は父権・夫権・家長権・主人権の四つからなるとした。血縁家族と関係する父権・夫権・家長権の要素に注目すると、中世前期の家族は父・母の親権がイエを統制し、他の権限が未分離であった。それが室町時代になると、父権は夫権の確立によって、親権から分離し、家長権は単独相続制と隠居制の確立によって親権から分離したと考えられる(飯沼賢司)(『日本女性史大辞典』吉川弘文館)。