周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井昭氏所蔵)7

    七 大内氏奉行人書状(切紙)

 

(安芸賀茂郡               (杉)

 造賀要害ニ長々令在城、毎事馳走之由、隆宣注進之趣遂披露候、尤神妙之

 通、以御書仰出候、面目之至候、弥可忠節之通、能々可申之

 旨候、恐々謹言、

     (天文七年ヵ)(1538)      (内藤)

       五月十三日         隆時(花押)

          (房家)

        石井和泉守殿

 

 「書き下し文」

 造賀要害に長々在城せしめ、毎事馳走の由、隆宣注進の趣遂披露を遂げ候ふ、尤も神妙の通り、御書を以て仰せ出だされ候ふ、面目の至りに候ふ、いよいよ忠節を遂げらるべきの通り、よくよく申すべきの旨にて候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 造賀要害に長々と在城し、すべてのことで奔走したことについては、杉隆宣が注進した内容を大内義隆様に披露しました。いかにも感心なことだと、ご書状によって仰せになられました。この上ない名誉です。ますます忠節を遂げなさるべきであると、念には念を入れて(石井房家殿に)申し上げるべきであるということです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「造賀要害」─現東広島市高屋町稲木。鷹巣山(五三四メートル)の東南に位置する。

       同山から流れる小河川が浅くて複雑な谷と低丘陵を形成。南は桧山村に

       接する。地名は、応永三十二年(一四二五)八月十八日付周賀契状(国

       郡志下調書出帳)に「高屋保内稲木長福寺」と見える。

       鷹巣山頂には大内氏家臣杉森下総守が築いたと伝える城跡があり、天文

       七年(一五三八)頃大内氏が石井氏らを在城させていた造賀要害(石井

       文書)はこれではないかと推定される。平賀弘保・興貞父子は大内方・

       尼子方に分かれて対立していたが、造賀要害は弘保と大内氏が築いたも

       のらしく、のち大内氏から弘保に返還されている(同文書)。山頂の本

       丸を中心に尾根上に一〇余の郭を配する(「稲木村」『広島県の地名』

       平凡社)。