周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 34 ─吾妻鏡3(訴願と自殺)─

  文治元年(一一八五)十月十三日条

                    『吾妻鏡』第五(『国史大系』第三二巻)

 

 十三日壬戌、去十一日并今日、伊豫大夫判官義經潜參 仙洞、奏聞云、前備前守行家向背關東企謀反、其故者、可誅其身之趣、鎌倉二位卿所命、達行家後聞之間、以何過怠可誅無罪叔父哉之由、依含欝陶也、義經頻雖加制止、敢不拘、而義經亦退平氏凶惡、令属世於靜謐、是盍大功乎、然而二品曾不存其酬、適所計宛之所領等悉以改變、剰可誅滅之由有結搆之聞、爲遁其難已同意行家、此上者可賜頼朝追討官苻、無 勅許者兩人共欲自殺云々、能可宥行家欝憤之旨有勅答云々、

 

  文治元年(一一八五)十一月十五日条

                    『吾妻鏡』第五(『国史大系』第三二巻)

 十五日甲午、大藏卿泰經朝臣使者參着、依怖刑歟、直不參營中、先到左典厩御亭、告被献状於鎌倉殿之由、又一通獻典厩、義經等事、全非微臣結搆、只怖武威傳奏許也、及何様遠聞哉、就世上浮説、無左右不鑚之様、可被宥申云々、典厩相具使者、達子細給、府卿云状披覽、俊兼讀申之、其趣、行家・義經謀叛事偏爲天魔所爲歟、無 宣下者參宮中可自殺之由、言上之間、爲避當時難、一旦雖似有 勅許、曾非 叡慮之所與云々、是偏傳 天氣歟、二品被投返報云、行家・義經謀叛事、爲天魔所爲之由被仰下、甚無謂事候、天魔者爲佛法成妨、於人倫致煩者也、頼朝降伏數多之朝敵、奉任世務於君之忠、何忽變反逆、非指叡慮被下 院宣哉、云行家、云義經、不召取之間、諸國衰弊、人民滅亡歟、仍日本第一大天狗者、更非他者歟云々、

 

 「書き下し文」

 (十月)十三日壬戌、去んぬる十一日并びに今日、伊予大夫判官義経潛かに仙洞に参り、奏聞して云く、前備前守行家関東に向背し謀叛を企つ、其の故は、其の身を誅すべきの趣、鎌倉二位卿命ずる所、行家の後聞に達するの間、何の過怠を以て罪無き叔父を誅すべきやの由、欝陶を含むに依るなり、義経頻りに制止を加ふと雖も、敢えて拘はず、而るに義経も亦平氏の凶悪を退け、世を静謐に属せしむ、是れ盍ぞ大功ならざる、然れども二品曾て其の酬いを存ぜず、適々計らひ宛つる所の所領等悉く以て改変し、剰え誅滅すべきの由結構の聞こえ有り、其の難を遁れんがため已に行家に同意す、此の上は頼朝追討の官符を賜ふべし、勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと云々、能く行家の鬱憤を宥むべきの旨勅答有りと云々、

 

 (十一月)十五日甲午、大蔵卿泰経朝臣の使者参着す、刑を怖るるによりてか、直に営中に参らず、先ず左典厩の御亭に到り、状を鎌倉殿に献ぜらるるの由を告ぐ、又の一通を典厩に献ず、義経等の事、全く微臣の結構に非ず、只だ武威を怖れ伝奏するばかりなり、何様の遠聞に及ぶや、世上の浮説に就き、左右無く鑽らざるの様、宥め申さるべしと云々、典厩使者を相具し、子細を達し給ふ、府卿の状を披覧し、俊兼之を読み申す、其の趣、行家・義経謀叛の事偏に天魔の所為たるか、宣下無くんば宮中に参り自殺すべきの由、言上するの間、当時の難を避けんがため、一旦勅許有るに似たりと雖も、曾て叡慮の與ふる所に非ずと云々、是れ偏に天気を伝ふるか。二品返報を投げられて云く、行家・義経謀叛の事、天魔の所為たるの由仰せ下さるるは、甚だ謂はれ無き事にて候ふ、天魔は仏法のため妨げを成し、人倫に於いて煩ひを致す者なり、頼朝数多の朝敵を降伏し、世務を君に任せ奉るの忠、何ぞ忽ち反逆に変はらん、指せる叡慮に非ずして院宣を下さるるか。行家と云ひ義経と云ひ、召し取らざるの間、諸国衰弊し、人民滅亡するか、仍て日本国第一の大天狗は、更に他者に非ざるかと云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』2、吉川弘文館、2008)

 (十月)十三日、壬戌。去る十一日および今日、伊予大夫判官(源)義経が密かに仙洞(後白河)に参り、奏聞して言った。「前備前守(源)行家が関東に背き謀反を企てました。その理由は、行家の身を誅せよとの鎌倉に二位卿(源頼朝)の命令が、行家の耳に届いたので、何の過ちがあって無実の叔父を誅するのかと憤ったものです。義経は頻りに制止しましたが、一向に聞き入れられません。それに、義経もまた平氏の凶悪を退けて、世の中に静けさを取り戻しました。これがどうして大功でないことがありましょうか(なんと大きな功績ではありませんか)。それなのに二品(頼朝)はまったくそれに報いようとせず、たまたま義経に計らい宛てられていた所領などもすべて改変したばかりか、義経を誅滅せよと企てているとの噂もあります。義経はこの難を逃れるためにすでに行家と手を結びました。この上は頼朝追討の官符を賜りたい。勅許が無ければ両人ともに自殺するつもりです」。これに対し、「よくよく行家の鬱憤をなだめるように。」と(後白河院の)のお答えがあったという。

 

 (十一月)十五日、甲午。大蔵卿(高階)泰経朝臣の使者が(鎌倉に)到着した。処罰を恐れたのだろうか、直接に御所には参らず、まず左典厩(一条能保)の御亭に着き、書状を鎌倉殿(源頼朝)に献上すると告げた。また別の一通を能保に献じた。書状の内容は「(源)義経らのことは、まったく私の企みではありません。ただ武威を恐れて院に伝奏しただけです。どのようにお耳に達しているでしょうか。世間の流言によって、軽率に処罰されないよう、お宥めください。」とのことだった。能保は使者を連れて、事情を(頼朝に)申し上げた。(頼朝は)泰経の書状を披き見て、俊兼が読みあげた。その内容は以下の通りであった。「(源)行家・義経の謀反のことはただただ天魔のなすところです。追討の院宣が出されなければ、宮中に参って自殺すると申してきました。そのためさしあたっての難を避けるために、一旦は勅許があったからのようにしたものであり、けっして(後白河院の)お考えにより与えたものではありません」。この申状はそのまま院のお考えを伝えたものかと、二品(源頼朝)は返事を(使者に)投げられておっしゃった。「行家・義経の謀反のことは、天魔の所為であると仰せられたとは、はなはだ謂われのないことである。天魔は仏法に対して妨げを成し、人に対して煩いをするものである。頼朝が多数の朝敵を降伏させ、世の政務を君に任せ奉った忠節を、どうしてたちまち反逆に変えてしまうのか。特別な院のご意思によらずに、院宣が下されたのか。行家にせよ、義経にせよ、召し捕らえなかったために、諸国は疲弊し、人民は滅亡することになった。よって(天魔どころか)日本第一の大天狗は、けっして他の者ではない」。

 

 

 「注釈」 

「中世社会においては、自害した者や自害を試みようとする者に対しては、公権力も周囲の社会も理非を超えて一定の配慮をもっていたことが明らかであろう。これらの配慮を期待して、ときに中世の人々は起死回生の一策として、自害を口にしたり、現実に実行したのだと考えられる。」(清水克行「中世社会の復習手段としての自害」『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、2004、38頁、「復讐の正当性」『喧嘩両成敗の誕生』講談社、2006)。

 

 今回の記事を説明するのに、上の主張は最も適切だと思います。源頼朝の討伐命令によって、源行家義経は窮地に陥るのですが、その劣勢をひっくり返すために、義経は頼朝追討の官符を賜るよう後白河上皇に訴え出ました。その交渉の道具が自殺だったのです。自殺するという脅しによって、官符下賜という配慮を期待したのでしょう。この記事が史実かどうかははっきりしませんが、鎌倉時代の初期には、こうした「究極の訴願の形態としての自害」(前掲清水著書、36頁)が普及していたのかもしれません。