周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 35 ─吾妻鏡4(捕縛は恥か!?)─

  文治五年(一一八九)九月七日条

                    『吾妻鏡』第九(『国史大系』第三二巻)

 

 七日甲子、宇佐美平次實政生虜泰衡郎從由利八郎、相具參上陣岡、而天野右馬允則景生虜之由相論之、二品仰行政、先被注置兩人馬并甲毛等之後、可尋問實否於囚人之旨、被仰于景時、々々〈着白直垂折烏帽子、紫革烏帽子懸〉、立向由利云、汝者泰衡郎從中有其号者也、真偽強不可搆矯餝歟、但任實正可言上也、着何色甲者、生虜汝哉云々、由利忿怒云、汝者兵衛佐殿家人歟、今口状過分之至、無物取喩、故御舘者、爲秀郷將軍嫡流之正統、已上三代、汲鎮守府將軍之号、汝主人猶不可發如此之詞、矧亦汝与吾對揚之處、何有勝劣哉、運盡而爲囚人、勇士之常也、以鎌倉殿家人、見奇恠之條、甚無謂、所問事、更不能返答云々、景時頗頳面、參御前申云、此男惡口之外、無別言語之間、無所欲糺明者、仰云、景時依現無礼、囚人咎之歟、尤道理也、早重忠可召問之者、仍重忠手自取敷皮、持來于由利之前令坐之、正礼而誘云、携弓馬者、爲怨敵被囚者、漢家本朝通規也、不可必称恥辱之、就中、故左典厩、永暦有横死、二品又爲囚人、令向六波羅給、結句配流豆州、然而佳運遂不空、拉天下給、貴客雖令蒙生虜之号、始終不可貽沈淪之恨歟、奥六郡内、貴客備武將譽之由、兼以聞其名之間、勇士等爲立勲功、搦獲客之旨、互及相論歟、仍云甲云馬、被尋畢、彼等浮沈、可究于此事者也、爲着何色之甲者、被生虜給哉、分明可被申之者、由利云、客者畠山殿歟、殊存礼法、不似以前男奇恠、尤可申之、着黒系威甲、駕鹿毛馬者、先取予引落、其後追來者、嗷々而不分其色目云々、重忠令歸參、具披露此趣,、件甲馬者、實政之也、已開御不審訖、次仰曰、以此男申状察心中、勇敢者也、有可被尋事、可召進御前者、重忠又相具之參上、被上御幕覽之、仰曰、己主人泰衡者、振威勢於兩國之間、加刑之條、難儀之由、思食之處、無尋常郎從歟之故、爲河田次郎一人被誅訖、凡管領兩國、乍爲十七万騎之貫首、百日不相支、廿ヶ日内、一族皆滅亡、不足言事也、由利申云、尋常郎從、少々雖相從、壯士者分遣于所々要害、老軍者依不行歩進退、不意自殺、如予不肖之族者、又爲生虜之間、不相伴最後者也、抑故左馬頭殿者、雖令管領海道十五ヶ國給、平治逆乱之時、不支一日給而零落、雖爲數万騎之主、爲長田庄司、輙被誅給、古与今甲乙如何、泰衡所被管領之者、僅兩州勇士也、數十ヶ日之間、奉悩賢慮、一篇不可令處不覺給歟云々、二品無重仰、被垂幕、由利者、被召預重忠、可施芳情之由、被仰付云々、

 

 「書き下し文」

 七日、甲子、宇佐美平次實政泰衡の郎従由利八郎を生虜り、相具して陣岡に参上す、而るに天野右馬允則景生虜るの由之を相論す、二品行政に仰せ、先ず両人の馬并びに甲の毛等を注し置かるるの後、実否を囚人に尋ね問ふべきの旨、景時に仰せらる、景時〈白の直垂・折烏帽子を着し、紫革の烏帽子を懸く〉、由利に立ち向かひて云く、汝は泰衡の郎従の中に其の号有る者なり、真偽強ち矯餝を構ふべからざるか、但し実正に任せ言上すべきなり、何色の甲を着す者、汝を生虜るやと云々、由利忿怒して云く、汝は兵衛佐殿の家人か、今の口状過分の至り、喩へに取る物無し、故御館は秀郷将軍嫡流の正統として、已上三代鎮守府将軍の号を汲む、汝の主人すら猶ほ此くのごときの詞を発すべからず、矧んや亦汝と吾とは対揚の処、何れに勝劣有らんや、運尽きて囚人と為るは、勇士の常なり、鎌倉殿の家人を以て、奇怪を見るの條、甚だ謂われ無し、問ふ所の事、更に返答するに能はずと云々、景時頗る面を赫らめ、御前に参り申して云く、此の男悪口の外、別して言語無きの間、糺明せんと欲する所無してへり、仰せて云く、景時無礼を現すに依り、囚人之を咎むるか、尤も道理なり、早く重忠之を召し問ふべしてへり、仍て重忠手づから敷皮を取り、由利の前に持ち来たり之に坐せしむ、礼を正して誘ひて云く、弓馬に携はる者、怨敵のために囚へらるるは、漢家・本朝の通規なり、必ずしもこれを恥辱と称すべからず、なかんづく、故左典厩永暦に横死有り、二品もまた囚人として六波羅に向かはしめ給ふ、結句豆州に配流せらる、然るに佳運遂に空しからず、天下を拉げ給ふ、貴客今生虜の号を蒙らしむと雖も、始終沈淪の恨みを貽すべからざるか、奥六郡の内、貴客は武将の誉れを備ふるの由、兼ねて以て其の名を聞くの間、勇士ら勲功を立てんがため、客を搦め獲るの旨、互いに相論に及ぶか、仍て甲と云ひ馬と云ひ、尋ねられ畢んぬ、彼らの浮沈、此の事に究まるべき者なり、何色の甲を着す者のために生虜られ給ふや、分明に之を申さるべしてへり、由利云く、客は畠山殿か、殊に礼法を存じ、以前の男の奇怪に似ず、尤も之を申すべし、黒糸威の甲を着し、鹿毛の馬に駕す者、先ず予を取り引き落とす、其の後追ひ来たる者、嗷々として其の色目を分からずと云々、重忠帰参せしめ、具に此の趣を披露す、件の甲馬は實政のなり、已に御不審を開き訖んぬ、次いで仰せて曰く、此の男の申す状を以て心中を察するに、勇敢の者なり、尋ねらるべき事有り、御前に召し進らすべしてへり、重忠又之を相具し参上す、御幕を上げられ之を覧ず、仰せて曰く、己が主人泰衡は、威勢を両国に振るふの間刑を加ふるの條、難儀の由、思し食すの処、尋常の郎従無きかの故、河田次郎一人のために誅せられ訖んぬ、凡そ両国を管領し、十七万騎の貫首たりながら、百日相支へず、廿ヶ日の内、一族皆滅亡す、言ふに足らざる事なり、由利申して云く、尋常の郎従、少々相従ふと雖も、壮士は所々の要害に分け遣はす、老軍は行歩進退ならざるにより、意はず自殺す、予のごとき不肖の族は、又生虜らるるの間、最後に相伴はざる者なり、抑も故左馬頭殿は、海道十五ヶ国を管領せしめ給ふと雖も、平治逆乱の時、一日支へ給わずして零落す、数万騎の主たりと雖も、長田庄司のために輙ち誅せられ給ふ、古と今と甲乙如何、泰衡管領せらるる所は、僅かに両州の勇士なり、数十ヶ日の間、賢慮を悩ませ奉る、一篇不覚に処せしめ給ふべからざるかと云々、二品重ねて仰すること無く、幕を垂れらる、由利は、重忠に召し預けられ、芳情を施すべきの由、仰せ付けらると云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』4、吉川弘文館、2008)

 七日、甲子。宇佐美平次実政が(藤原)泰衡の郎従である由利八郎(維衡)を生け捕り、引き連れて陣岡に参上した。ところが天野右馬允則景が(自分こそ)生け捕ったのだと言って相論になった。二品(源頼朝)は(藤原)行政に命じて、まず両人の馬ならびに甲の毛色などを記し置いた後に、「実否を囚人に尋ねるように。」と(梶原)景時に命じられた。景時〔白の直垂に折烏帽子を着け、紫革の烏帽子懸〕が維衡に立ったまま向かって言った。「汝は泰衡の郎従の中でも名が聞こえた者であるから、真偽をあながちに曲げて虚飾を加えることはなかろうが、ありのままに言上せよ。何色の甲を着けた者が何時を生け捕ったのか」。維衡は憤怒して言った。「汝は兵衛佐殿(頼朝)の家人か。今の口上は過分至極であり、たとえ様もない。故御館(泰衡)は(藤原)秀郷将軍の嫡流の正統である。これまでに三代、鎮守府将軍の号を保持してきた。汝の主人であってもなお、このような言葉を発すべきではない。ましてや汝と我と対峙した時に、どちらに勝劣があろうか。運が尽きて囚人となることは勇士の常である。鎌倉殿の家人だからといって、無礼な態度を示すのは全く理由がない。その質問には、全く返答はできない」。景時は顔を真っ赤にして御前に参って申し上げた。「あの男は悪口のほかにこれといって語る言葉が無いので、糺明しようとしても無駄です」。(頼朝が)仰った。「景時が無礼な態度を示したから、囚人が咎めたのであろう。まったく道理である。早く(畠山)重忠を召して尋問させよ」。そこで重忠は手ずから敷皮を取り、維衡の前に持って来てこれに座り、礼を正してなだめて言った。「弓馬に携わる者が敵に囚われるのは、和漢の通例であり、必ずしも恥辱とはいえない。特に故左典厩(源義朝)は永暦の年に横死された。二品(頼朝)もまた囚人として六波羅に連行され、結局伊豆に配流された。しかしその佳運はついには虚しくはならず、天下を取られた。貴殿も今、捕虜となったが、いつまでも不運の恨みを貽すべきではあるまい。奥六郡の内で貴殿は武将の誉れを備えていると、かねてからその名が聞こえているので、勇士らが勲功を立てようと、(自分が)貴殿を搦め取ったと互いに相論している。そこで甲や馬について尋ねられたのだ。彼らの浮沈はこの事で決まる。何色の甲を着けた者のために生け捕りになったのか、はっきりと申されよ」。維衡が言った。「貴殿は畠山殿か。特に礼法をわきまえており、さきほどの男の無礼さには似ていない。今こそそのことを申そう。黒糸威の甲を着け、鹿毛の馬に乗った者が、まず私をつかんで引き落とした。その後、追いついて来た者については状況が入り乱れていて、その色ははっきりしない」。重忠は帰参してこと細かにこの内容を申し上げた。その甲と馬は実政のものであるということで、ようやく(頼朝の)御不審が解けた。ついで(頼朝が)仰った。「この男の申す様から心中を推察するに、勇敢の者である。尋ねたいことがある。御前に召せ」。重忠はまた維衡を伴って参上した。(頼朝は)幕を上げられ、維衡を御覧になって仰った。「汝の主人である泰衡は、威勢を(奥羽)両国に振るっていたので、刑を加えることは難しいと思っていたところ、立派な郎従がいなかったためか、河田次郎一人のために誅されてしまった。いったい両国を支配し、十七万騎の棟梁でありながら、百日も支えられず、二十日のうちに一族がみな滅亡してしまった。言うに足らないことよ」。維衡が言った。「立派な郎従も少々は従っていましたが、壮士は所々の要害に分散して派遣されており、老将は歩行進退が不自由で心ならずも自殺しました。私のような不肖の者はまた捕虜となったので、最後にお供ができなかったのです。そもそも故左馬頭殿(義朝)は東海道十五ヵ国を支配したのに、平治の逆乱の時には一日も支えられずに没落し、数万騎の主であったのに長田庄司(忠致)によってたやすく誅されてしまいました。昔と今で優劣がありましょうか。泰衡が支配されていたのは、わずかに両国の勇士のみです。(にも関わらず)数十日の間、(頼朝を)悩ませました。不覚であったとはたやすく判断できないでしょう」。頼朝は再度の仰せはなく、幕を垂らされた。維衡は重忠に預けられ、芳情を施すように仰せつけられたという。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「維衡」─ ?─1190(?─建久元)。維平とも。藤原秀衡の郎従。宇佐美実政

     生け捕られるが、勇敢の誉れにより赦免される。建久元年の大河兼任の乱

     に際し、討死。

「折烏帽子」─立烏帽子に対して、小さく折りたたんだ烏帽子。行動しやすく、武士の

       かぶり物として侍烏帽子ともいう。

「烏帽子懸」─烏帽子の上に懸け、あごの下で結ぶ紐。頂頭掛(ちょうずかけ)とも。

「敷皮」─動物の皮で作った敷物。

六波羅」─京都市東部の鳥辺山西麓一体。平氏の拠点として平清盛をはじめとする平

      氏の邸宅が並んでいた。

「黒糸威の甲」─黒糸の組紐を威毛に用いた鎧。

鹿毛」─馬の毛色の種類。赤みを帯びた黒色。

「平治の逆乱」─平治の乱。平治元年、藤原信頼源義朝が、政権を主導していた信

        西・平清盛の打倒を目指して挙兵するが、敗れて信頼は斬罪、義朝は

        家人の長田忠致に殺害され、頼朝は伊豆に流罪となった。

「忠致」─ ?─1190(?─建久元)。門真致俊の男。長田庄司を称す。平治の乱

     際し、東国に落ち延びる源義朝を討った。

「行政」─二階堂行政

 

*今回の記事は、厳密に言うと、自殺に関する史料ではありません。「自殺の中世史29」(『沙石集』)、「自殺の中世史32」(吾妻鏡1)に続き、「恥」についての事例を追加しておきたいがために書きました。

 さて、「恥」についてコメントする前に、まず簡単に記事の概要を述べておきます。この史料は、藤原泰衡の郎従由利八郎維衡に関するエピソードです。由利維衡を捕らえたと主張する二人の人物(宇佐美平次実政と天野右馬允則景)が現れるのですが、実際にどちらが捕らえたのかを、由利本人から聞き出そうとしている場面になります。初めは、梶原景時が問い糺すのですが、その無礼な態度に激怒したため、由利はまったく答えませんでした。次に、畠山重忠が礼を尽くし、宥めて言ったのが次の言葉です。

 「弓馬に携はる者、怨敵のために囚へらるるは、漢家・本朝の通規なり、必ずしもこれを恥辱と称すべからず」

 つまり、「捕まることは恥ではない」ということです。以前、同じ吾妻鏡の事例を扱った「自殺の中世史32」のときには、「捕縛は恥ではない」という通念があるのではないかと推測しただけでしたが、ここでは、明確に「必ずしもこれを恥辱と称すべからず」と表現しています。由利維衡に気持ちよく喋らせるための、たんなる宥言(宥めの言葉)ともとれますし、この時点で維衡を味方につけたいと考えていたから、宥言を口にしたのかもしれませんが、鎌倉初期、治承・寿永の内乱時には、捕縛を恥辱とみなさない意識が、はっきりと言語化されていたことはわかります。

 一方で、「自殺の中世史29」では、「捕まることは恥だ」という通念を紹介しました。出典である『沙石集』の成立は1283年ですし、そのエピソード自体は承久の乱(1221年)に関するものでした。したがって、今回の史料や「自殺の中世史32」よりも、少しばかり年代が遅いと言えます。鎌倉幕府草創期の混乱した状況では「捕縛は恥にならず」、体制が固まりつつある時期になると「捕縛は恥になる」のかもしれません。そうすると、本来捕まることは別に恥ずかしいことではなかったのに、いつの時期からか恥ずかしいことになったと考えられそうです。なぜ、捕まることが恥ずかしくなったのか。その原因や背景はまったくわかりませんが、ひとまず中世には、捕縛に対する真反対の意識が存在していたということだけは、指摘できそうです。となると、「捕縛によって生き恥を晒したくないから自殺する」というロジックも、当然のことながら、相対的な1つの社会通念に過ぎないことになります。