周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

武谷三男著書

武谷三男著作集1『弁証法の諸問題』勁草書房 1968.6.15

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 

「哲学はいかにして有効さを取戻しうるか」

矛盾や困難が生じた場合に、二通りの見解があらわれ、一つは理論の変更すなわち機能的側面(諸現象の法則化、再法則化カ)より解決すべしというもの、他の一つは対象の構造を確立すること、すなわちまた新たなる実体の導入による解決を主張するものである(これが理論を鍛えると言うこと)。そしてこれらの場合すべて機能的主張は否定されて、新たなる実体の導入という主張に軍配が上がった。

すなわち核内電子に関する諸困難、ラドンベリリウムを一緒におくことによって出てくる特殊な線の困難、これらは電子や光子などの法則、機能を変えるものではなく、新たなる実体たる中性子の導入によって解決された。

 

「私」(マッハなどはこの中性子を理念とするが、実体であるがゆえに現象が生ずる。イエの議論もそう。石井、坂田レベルでは理念・概念提起に過ぎないが、村落・百姓レベルにおいてだけではあるが、勝俣、蔵持レベルでは中世史研究に完全に実体として導入し得た。一見理念、学術概念のように見えるが、実体として認識しなければ、それに伴う現象が説明できなかったはず。)

 

 この進展において特徴的な点は矛盾にぶつかると必ず対立した二つの見解があらわれることである。しかしまず最初にあらわれるのは、機能的方向によって解決されると言う考えであって、できるだけ新たなる実体の導入はさけられた。最初はこの努力は結構である。しかし科学は対象の構造を知るのではない、実験結果を法則を立てて整理するに過ぎぬという認識論ではいかんともすべからざる事は、これによってよく分かるであろう。

 

 

 

武谷三男著作集5 自然科学と社会科学』勁草書房 1970.2.25

『自然科学と社会科学の現代的交流』

 前編 現代物理学の論理
  自然認識発展の三段階─現象論・実体論・本質論─
─現象論的な記述から本質的な法則を出してくるというのにはどうしても実体論的な段階を必要とする。この場合に形式的に三つの段階が次々とあらわれるというのではなく、なんらかの形で実体論的な見方というものがどうしても土台にならなければ認識は発展しない。
 何があるかということに対して、どういうふうに現象しているかということは、そのものの運動の結果あらわれるものである。ただし現象において、このものの運動そのものが直接に明らかになるとは限らない。運動の結果が現象として観測されるのである。対象に何があるかを問題にしなければならない。すなわち、どういう構造になっているかを問題にすることが必要なわけである。
 そこに何があるかという問題を出してゆかなければ実体がでてこないと言える。すなわち、現象から実体へはむしろ不連続的に知識が進むのである。

 現象Aと現象Bを結び付けるには構造Cを媒介としなければ、実体Dはあらわれない。

 現象Aを説明する公式(法則)は現象Aのみを説明するもので、条件が少し変わってくると、関係や法則が導き出せない事になる。

Ex. 分家の問題、惣領・庶子身分の問題、出家の問題、単独相続の問題、親族関係の問題、軍役の問題、家臣団編成の問題etc. ⇨『現象』

    ⇨イエという『構造』を前提とする。

    ⇨そして、『実体』把握

    ⇨最終的に『本質論』へ

 

 量子力学の形成
  量子力学の発展
─何がそこにあるか(構造カ)、その間にどういう相互作用が働いているか、その作用の法則 ⇨止揚した形の法則(カ)へ

 量子力学というものは実体的な構造、つまりシステム(系)すなわち存在するものとその相互作用の力から出発して、このようなシステムがとっている状態(ステート)を出してくるものである。だから状態が決まる前に、システムが何からできているかということと、その間にはどういう力が働いているかということを決めなければならないのである。

 

後編 経済学と物理学の交渉─社会科学の現代的省察
  社会経済構造の現代的認識
現象形態から本質把握への過程
─本質論的段階・実体論的段階・現象論的段階の三つの段階に分けて、本質論的段階では基本概念を設定する。実体論的段階ではそこに何があるか、はじめは過程であっても、何か他の方法でそれを突き止めることができる。結論としてはここに行くわけである。
 ナマの現象そのものの中に、本質は顔をだしている。実際個々の現象にあらわれてきているものがすべてではない。現象というものは、本質が偶然性という媒介によって現象しているのである。

 

  自然科学的認識と社会科学的認識
仮説と実体

経験1、経験2・・・・・経験n+1=An(要約)⇦⇦①実体論的要素
                       ②本質論的要素
(つぎの経験に対して ⇩  是ならば)

    n以外の経験を含んだ一つの表現(実体)

物理学の発展は実体の導入と、それからその実体に対してそれが持つ新しい論理の形成という形をとっている。ただ現象から概念を要約するという平たんな表現だけでは、どうもすまされないということになる。いままでの経験があって、これらの要約として新しい実体を導入すべきだということになった場合でも、もしこの新しい実体の導入がすでに得られた経験だけを満たしているというのならば、こんなものは意味がないという結論になってくる。

 

 実体論と価値論
価値実体の意義
─おのおのの局面には、おのおのそれに相当した実体があるのであって、どれのみが実体でなければならぬということはない。その理論の組み立ての中の実体だという問題である。
 

社会構造と価値
─より複雑な構造を考えるとか、より新しい実体の導入とかいうのは、いままで考えていたものでは不十分だ、不十分だということよりそういうことは間違いだ、実体的な構造の違いがそういう現象をあらわしているのだということである。いろいろな困難に逢着して、それを例えばファンクションの側からなおしてゆくか、それとも実験との食い違いは新しい実体を意味しているのかということがある。
 現象形態(価格変動・状態関数・諸活動)と本質的な観念(価値基準・中間子・?)というものを規定するものが実体的構造(諸労働・原子・中世社会)である。

⇨要は現象を説明することに意味があり、その証明として実体と本質を考えるということか。

 

 ─『私見』─
1. 研究史上の問題関心と私的な問題関心は次元が違う。接点を見つけるべきである。
2.研究史上の問題関心とは、先学がさまざまな歴史的諸現象を説明し切れていないところに生ずる。違うと感じる、物足りないと感じる。
3.それを説明して行くには、まずさまざまな歴史的諸現象を抽象化(理想化)して行く。そうすると、本質的関係が見えやすくなる。しかしそれは本質ではない。
4.また、本質を探すためには、先学がいままでの実体的構造でもって、本質論を指摘できておらず、その本質の運動(機能、また構造上の相互関係など)によって諸現象が説明できていないのだから、新しい実体をどこからかもってこなければならない。
5.そして新たな実体を組み込んだ構造(またはその実体そのものの内部構造)から本質を導き出してやり、歴史的諸現象を説明してやる。
6.その結果あらわれた本質というものが、歴史的意義とか、歴史的真実というものであろう。
7.こういう方法をとると、論理的な発展が望める。


人間は生産活動においては自然力として作用しているわけだが、その場合に主体性が人間、自然力として自然の中で主体性をもって働いている。自然の中でものを実現してゆくというプロセスによると、その主体性というのはやはり基本的な主体性だと思う。自然という範囲の中で行われている主体性ですが、だから労働者階級の主体性と論理的には同じだ。唯物弁証法の論理からいうと、自然の中でものを実現してゆくという主体性は、新たな社会を形成するという意味の主体性とは違うが、それは対象が違うから違うだけの事でその論理的な関係は同じだと思う。それが技術論ということになってゆくわけだが、自然の中での人間の主体性を究明するのが技術論だと思う。

 

現代における変革の論理
─本当の社会的主体性は労働階級においてあらわれる。
 労働を基盤にした社会というのは人間の社会にしかないと思う。
動物の社会との違いはどこにあるか、それは意識の問題、意識というものが本質的に形成されているかどうかという違い、労働によって意識が形成されているかどうかということである。それから、技術論の問題になるが、技術と技能、本能という三つのものの区別から問題が始まる。本能というのは遺伝によって伝承され、技術というのは熟練によって得られるもので、個人的なものとして個体的で伝承されないものである。しかるに技術というのは社会的なもので、熟練や遺伝でなく、知識によって伝えることができる。熟練は伝承できない。技能は個体の中に定着したものであって、定着するためには熟練という方法によって訓練するわけですが、技術の方は伝承である。人から人に伝えることができる。発展的な伝承である。いくらでも発展さすことのできる伝承である。ここに他の動物との違いが決定的に現れてくる。ここに技術論の特徴的なものがあり、これが人間社会を特徴づけるものである。
 労働手段は経済学的に重要な概念ですが、技術というのは労働力にも、労働手段にも労働対象にも関係がある。経済学では生産力という、非常にはっきりした概念によってつかまれるわけで、それは経済学的にはっきり測定できるものである。技術は生産力を構成する一つの要素として、そういう意味において経済学に関係してくるわけです。
 自然科学が出る前の原始的社会でも、何かやる場合にはうまく行くのだ(畑の耕し方、料理の作り方、家の継承法など)という法則性(法則ではなく、法則性で、法則から現象までの全体の論理構造をさしている)──法則を認識してはいないけれど──こういうことの考えの下でやっているのですから、一種の素朴な法則性の意識的適用です。技術は客観的なもので、技能というのは主観的なもので、自分の体の中で心理的作用を通して形成されたものですから、技術との間に決定的な違いが出てくる。技術は客観的法則性を意識して適用するのだから、人から人に客観的法則性の把握というものを伝承することができる。それは言葉によってできる。この客観的法則性はその論理的構造からいって実体を通して、実体においてのみ存在する。客観的法則性である以上、実体を媒介にしてあらわれる(いままで観念的なものとされてきたものでも、客観的法則性から実体と表現できることがまだあるかも知れない。例えば、イエ。継承された何かから実体としてのイエを指摘できるかも。)。そしてこれは実践において労働手段、労働対象、労働力の三つの形をとってあらわれる。それはどうしても実体においてのみすべての法則は実現するからである。こうして実践においては、こういう実体的な要素をとる。だから技術の本質的規定はインテグレート(統合する、部分をまとめ完全にする)され、はじめて労働手段といったものが出てくる。ただ技術を微分的に原理的に規定するので、インデグレートすることによってこういうものが出てくるので、はじめから目につくように入っていないのです。すなわち労働手段などは現象面においてあらわれるわけです。そしてこれは現象論、実体論、本質論という論理構成がこれを可能にしているわけです。だから必ず、実体を媒介にして本質は現象する。しかも媒介には、これをインテグレートするのであるから、この中に技術にとって偶然的な要素が加わるわけです。労働手段という場合には労働手段の中に技術があるということであって、労働手段そのものが技術でない。労働手段の中に技術にとって偶然的な要素がいくらでも含まれている。労働手段の中にも技術はあるし、労働力の中にも、技術があるということは確かです。おのおのの中には技術はあっても、それらのおのおの自身が技術と同視される理由はないわけです。
 物理学におけるスタティック(静的)とダイナミック(動的)の違いは、スタティックは、ものに力が働いていて運動が変化しない場合の力関係を問題にしており、ダイナミックは、力が働いて運動が変化する関係を問題にする。どういう力が働いている時にどのものはどういう運動をするかということです。これがダイナミックです。スタティックというと机の上にお茶わんがのっかっていて、下方に重力が働いていて、これに反して机が上の方に押し上げられている。この二つの力のつりあいでじっとしているということです。力のつりあい関係を問題にするのです(何かの要因によってこの力関係が崩壊する、すなわち構造が変化する、これが矛盾で、それは内部にもある)。
 自然と意識の実際の場合の媒介は何かというと技術的な意味の実践、人間はこの世界についてあることを考えて実践する。失敗なり成功なりをする。失敗した限りにおいてこの認識は間違っていた、成功した限りにおいては正かったということを通して認識が行われる。つまり認識には実際の失敗と成功とい事が基本的な問題なのです。その違いは理論をもって実践が行われる事で、理論というものの結末において、決着が実践において行われるということです。決着というものが常に実在性を保障している、実在性の保障はいつも実践ということにあります。だからこういうことによって実践性が正しくつかまれてゆくことになるわけです。だから実践しない限り認識は行われない。各局面で常に実践というものがある限りにおいて実在性が保証され、また認識が正しく行われ、労働者階級の立場に立っても常に実践する限りにおいて正しい理論をもっている。実践しないと正しい理論でも何でもない。つまり実践において保証されないような、そういう責任をおわないような言葉は真理ではあり得ない。


  物理学は世界をどう変えたか
5 歴史をどう考えるか
─『ウォー・バイ・ミステイク(間違って戦争がおこる)』ソビエト首脳部もアメリカ首脳部も戦争するつもりがないのに、何かの間違いで戦争になってしまう。けれども、この間違って戦争になるという問題は、武谷さんのおっしゃったなかにもあるが、実際は〝間違い〞ではなくて、『必然的なもの』の中に入り得るようなものだと思う。
 第一次世界大戦の場合、あの時期にああいう形で戦争を始めることは大部分のヨーロッパの政府首脳間で考えていなかった。始まりそうになった時に、みんなしきりにとめようとした。それにもかかわらず、実際には戦争がおこる条件がそこらじゅうにあって、彼らはいつか戦争するつもりでいた。いよいよ始まりそうになった時にはみんなびっくりして、なんとか引き戻そうとしたが、もうできない。だから、『ウォー・バイ・ミステイク』も、前もって計画されたものではないというだけで、現在の情勢の中では当然起こりうることと考えなければならない。もしも第三次大戦がおこるとすれば、むしろ、そういう要素によって戦争が始まると考えられるわけです。