周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

石井文書(石井英三氏所蔵)9

    九 大内氏奉行人連署奉書寫

 

『前ニ同』

 去年六月十八日、至備後国安那郡神邊要害動之時、僕従四郎左衛門被矢疵

       (弘中)

 左股之由、隆兼注進遂披露、慥被 知召畢、尤神妙也、弥可馳走

 之由、依 仰執達如件、

     (1549)           (小原隆言)

     天文十八年八月十八日      安藝守

                       『在判』

                  (青景隆著)

                     越後守

                       『同』

                  (陶隆満)

                     安房

                       『同』

 

 「書き下し文」

 去年六月十八日、備後国安那郡神辺要害に至り動くの時、僕従四郎左衛門矢疵を左股に被るの由、隆兼注進し披露を遂げ、慥かに知ろし召され畢んぬ、尤も神妙なり、いよいよ馳走を抽づべきの由、仰せにより執達件のごとし、

 

 「解釈」

 去年天文十七年(一五四八)六月十八日、備後国安那郡神辺要害にやって来て戦をしたとき、僕従の四郎左衛門が矢疵を左股に受けた、と隆兼が大内義隆様に注進・披露し、間違いなくご存知になった。ますます奔走するべきであるとの仰せを下達する。

 

 「注釈」

神辺要害」─神辺町川北・川南。川北と川南の境を形成する古城山(紅葉山)にあ

       り、村尾城・深津城などともよばれ、「陰徳太平記」には神辺道ノ上

       城、「西備名区」に楓山城、「福山志料」に紅葉山城とある。標高約1

       20メートル、麓からの比高約110メートルで神辺平野を一望できる

       要所に位置する。

 〔城の変遷〕備後守護となった朝山景連が建武二年(一三三五)守護所を神辺にお

       き、同年築城したのが始まりとされる(備後古城記、福山志料)。以後

       山名氏・杉原氏らが城主として在城。「備後古城記」に「山名近江入道

       丈休嘉吉三年八月四日城ヲ再築ク」とあり、山名氏の一族で守護代をつ

       とめた犬橋満泰により嘉吉三年(一四四三)再築されたようである。

       天文七年(一五三八)大内義隆は銀山城(跡地は現福山市)城主杉原理

       興に尼子方の山名忠勝のいる当城を攻撃させ、代わって理興を城主にし

       た(三備史略)。ここに備後生え抜きの在地領主杉原氏が当城に拠って

       大内氏と結んで備後南部を支配することとなる(「閥閲録」所収杉原与

       三右衛門家文書)。理興は山名氏を名乗り(「福山志料」所載吉備津神

       社鐘銘)、城の修築をし、古市・七日市を含めた城下町を形成したと考

       えられる。天文十二年理興は尼子方に寝返り、以後同十八年城を脱出す

       るまで、大内氏(毛利氏)による神辺城攻めが行われる。天文十三年三

       月(同月十三日付「毛利元就同隆元感状案」毛利家文書)、天文十七年

       六月(同年十二月十日付「大内義隆感状」吉川家文書)などの攻防が知

       られるが、とくに後者は激戦で、持ちこたえた当城の堅固さがうかがわ

       れる。

       尼子方に身を寄せていた理興は、天文二十年の陶晴賢の謀反、同二十三

       年の毛利氏と陶氏との断交を機に元就にわびを入れ、弘治元年(一五五

       五)神辺城に帰り、再び杉原を名乗る。理興没後城主となった杉原盛重

       (銀山城主、理興の家老)は、永禄十一、二(一五六八、九)の毛利氏

       北九州出兵に従軍、その留守に反毛利氏の藤井能登守入道皓玄・大江田

       隼人祐らが蜂起し、城を一時占領した。同十二年八月盛重の子元盛・景

       盛らによって神辺城は奪回されたが、この戦いでは「去七日神辺陣表敵

       罷出時、退口江付送之、以鉄炮敵数人被討伏候」(「閥閲録」所収三戸

       平左衛門家文書)と鉄砲が使用されている。天正十年(一五八二)盛

       重・景盛の内紛を機に城は毛利氏の直轄となり、以後毛利氏譜代家臣が

       城番を勤めた(毛利家文書ほか)。

       関ヶ原戦後、毛利氏が防長へ移封すると、神辺城は福島正則の家老福島

       正澄(城代)の支配下に入る。元和五年(一六一九)正則改易後水野勝

       成も当城に入り一時在城したが、のち福山城建築に当城の建物の一部を

       利用したと思われる。また明治初年天別豊姫神社の境内整備の時に城の

       石垣が利用されたと伝える。

 〔城郭と城下町〕山頂に本丸が、本丸を巡って郭があり、麓の一段高いところに城主

       の館、その北側、現小屋(固屋)・上古屋・下古屋一帯に武家屋敷があ

       った。その外側に堀を巡らし、古市・七日市・三日市などの市町と区画

       していたようである。

       「陰徳太平記」の「平賀杉原合戦之事」(天正十七年)に「唯一人城中

       ヘツト入リ古キ固屋ノ有ケルニ火ヲ掛」「平賀カ城ヘ入シ時其一人三ノ

       丸ノハシノ下ニ隠レタルヲ」などとあり、「備後国神辺城合戦竝防州関

       所城合戦事」に「一ノ城戸口ヘ打テ出(中略)既ニ一ノ城戸ヲハ破ラレ

       ツ甲ノ丸ニ入テ防キケレ共」とあり、城郭の輪郭が推定できる。「備陽

       六郡志」は堀について「万念寺の前に街道有て、かけの橋を渡る也、む

       かしこの所城の追手筋にて、神辺町の後ハ堀にて、当時五六尺も掘ぬれ

       ハ下に石垣の切石有、此辺を堀田と云」と記し(ただしこの位置比定に

       ついては近年異論が出されている)、館(杉原屋敷)について「神辺

       明神」より東の方に屋鋪地アリ、是則盛重屋敷跡なり、昔の井あり、長

       刀一振落て有之よし」と現天別豊姫神社境内の池周辺とし、現在も杉原

       屋敷とよばれている。武家屋敷および堀について「西備名区」は「楓山

       城の麓、士庶の屋鋪の外に堀重々に有し」と記す。

       城下町の地名として「福山志料」が、杉原屋鋪跡・壕田・的場・鉄砲町

       (川北村)、牢屋小路・上小屋・下小屋(川南村)などを記す。