元家事、白山御城番相勤窮困之段、雖レ被二察 思食一候、暫時至二造賀要害一、
(平賀)
弘保被二申談一、令二登城馳走一可レ為二肝要一之由候、不レ可レ有二遅々油断之儀一
候、恐々謹言、
『杉三河守』(内藤)
十二月十四日 隆時『在判』
『内藤彦右衛門』(杉)
興重『同』
(左)(元家)
石井平右衛門殿
「書き下し文」
元家の事、白山御城番を相勤め窮困するの段、察し思し食され候ふと雖も、暫時造賀要害に至り、弘保と申し談じ、登城・馳走せしむること肝要たるべきの由にて候ふ、遅々油断の儀有るべからず候ふ、恐々謹言、
「解釈」
石井元家のこと。白山城番を勤め困窮している件については、大内様もその事情を思いやってくださっておりますが、しばらくの間は造賀要害に詰め、平賀弘保と相談し申し上げ、登城し諸事奔走することが大切であるとのことです。遅れたり油断があったりしてはなりません。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「白山城」─現東広島市高屋町白市。白市の東南にそびえる標高314・1メートルの
半独立丘上にあった平賀氏の拠城。県指定史跡。平賀氏系譜(同家文書)
の弘保の項に「御園生之要害、回山名殿之旗間、雖為名城、依山低、文亀
三年始被誘白山之城、御園生之城ハ一族家老友安式部ヲ置き云々」とある
ように、高屋堀の御園宇(みそのう)城の防御機能の弱さを考えて築いた
もの。必ずしも峻険とはいえず比高も十分ではないが、平賀氏の所領のほ
ぼ中央にあたり、交通路も四方に通じ、当時市町として発達しつつあった
西北麓の白市の掌握にも至便であった。頂上に千畳敷と称する直径37メ
ートルの円形の本丸があり、これを帯郭・腰郭が取り巻く。二の丸は西南
に延びる尾根上にあり、その下にも比較的大きな郭がある。市場として南
方の入野川沿いに木原氏の木原城、東北方の入寺川の谷口に東村氏の滝山
城(滝城)を配している。
平賀氏は大内氏に従っていたが、大永三年(一五二三)尼子氏が鏡山城を
攻略すると、一時尼子方に走った。その後大内方に帰順したが、同年築城
の頭崎城に入った平賀興貞は、白山城の父弘保との不和もあって尼子氏と
結び、父子が対立することとなった。大内氏は白山城に石井氏らを城番と
して送り込み、弘保を支援した(年欠十二月十四日付「大内氏奉行人連署
書状写」石井文書)。弘保の後を継ぐことになっていた興貞の子隆宗が天
文十八年(一五四九)病死すると、大内義隆は自分の養子で小早川常平の
次男隆保を後嗣として強引に送り込んだ。天文十九年大内氏が杉英勝らを
白山城に派遣したのは(年欠五月十日付大内義隆判物「閥閲録」所収渡辺
与右衛門家文書)、力で弘保を封じるためであったと思われる。
西麓の光政寺・西福寺から北麓にかけて武者畠・夢屋敷・鉄砲屋・右京殿
など、白市の西南を流れる小川の西岸域に御土居・明屋敷・御屋敷・的
場・白市の西町の北には土居ノ内などの地名がある(芸藩通志)。