周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 36 ─吾妻鏡5(臨終正念往生思想)─

   建久四年(一一九三)七月二日条

                   『吾妻鏡』第十三(『国史大系』第三二巻)

 

 七月大、二日丙寅、武藏守義信召進養子僧、〈號律師〉、去夜參着、是曾我十郎祐成弟也、日來在越後國久我窮山之間、參上于今延引云々、而今日聞可被梟首之由、於甘縄邊、念佛讀經之後、自殺云々、景時啓此旨、將軍家太令悔歎給、本自非可誅之志、只令同意兄乎否、爲被召問許也云々、

 

 「書き下し文」

 七月大、二日丙寅、武蔵守義信、養子の僧〈律師と号す〉を召し進らせ、去んぬる夜参着す、是れ曾我十郎祐成の弟なり、日来越後国久我窮山に在るの間、参上今に延引すと云々、而るに今日梟首せらるべきの由を聞き、甘縄辺りに於いて、念仏読経の後、自殺すと云々、景時此の旨を啓す、将軍家太だ悔い歎かしめ給ふ、本より誅すべきの志に非ず、ただ兄に同意せしむるや否や、召し問はれんがためばかりなりと云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』6、吉川弘文館、2009)

 七月大、丙寅。武蔵守(平賀)義信が律師と号する養子の僧を召し進め、昨夜(鎌倉に)参着した。この僧は曽我十郎祐成の弟である。このところ越後国久我躬(くがみ)山にいたので、参上が今まで延びていたという。そして今日梟首されると聞き、甘縄の辺りで念仏読経した後、自殺したという。(梶原)景時がこのことを申し上げた。将軍家(源頼朝)は大いに悔やんで嘆かれた。もとより死罪にしようとの気持ちはなく、ただ兄に同意していたのか否か、召して尋問されるためだけであったという。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「久我躬山」─原文「久我窮山」は誤り。国上山。『曽我物語』には曽我兄弟の弟とし

       て「越後国上といふ山寺」の「伊東禅師」が見える。国上山は新潟県

       市・西蒲原郡弥彦村にある山。また同山の南の中腹、燕市国上にある国

       上寺。

「甘縄」─若宮大路の西南に広がる地域。当時は二ノ鳥居より北、笹目より東がその中

     心。

 

 

*この史料は曾我兄弟仇討ち事件の関連史料になります。

 

「曾我兄弟」─鎌倉前期の武士。伊豆の豪族伊東祐泰(祐通)の長男十郎祐成、2男五

       郎時致兄弟をいう。1176(安元2)父が一族の工藤祐経に暗殺され

       た後、母の再嫁に従い相模の曾我祐信のもとで成長。1193(建久

       4)5月、源頼朝が催した富士の巻狩の際祐経を殺害。兄は討たれ弟も

       捕殺された。これは曾我の仇討事件として『曾我物語』などで著名だ

       が、背後に重大な政治的抗争が隠されていたとみられる(『角川新版日

       本史辞典』)。なお、『曾我物語』の作品論については、佐伯真一「復

       讐の論理 ─『曽我物語』と敵討─」(『京都語文』11、2004・

       11、https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0011/KG00110R004.pdf)を参照。中世の「敵討」の評価に大きな変更を

       迫っています。

 

 今回自殺を遂げたのは、曾我兄弟の弟の僧です。この僧は、自分が梟首されるという噂を聞いて、念仏読経し、自殺を遂げました。残念ながらこれ以上の詳しい状況はわかりませんが、おそらく「捕まって処刑されると正念が保てず、極楽に往生できないので、念仏読経によって正念を保ったまま自殺した」のではないでしょうか。したがって、自殺の原因動機は梟首の予期、目的動機は臨終正念の保持と極楽往生だと評価できそうです。頼朝自身に死罪に処す気持ちはなかったわけですから、この自殺は早計だったかもしれません。