周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 37 ─吾妻鏡6(放火と自殺)─

  建仁三年(一二〇三)九月二日条

                   『吾妻鏡』第十七(『国史大系』第三二巻)

 

 二日丁卯、今朝、廷尉能員以息女〈將軍家妾、若公母儀也、元号若狭局、〉訴申、北條殿、偏可追討由也、凡家督外、於被相分地頭職者、威權分于二、挑爭之條不可疑之、爲子爲弟、雖似靜謐御計、還所招亂國基也、遠州一族被存者、被奪家督世之事、又以無異儀云々、將軍驚而招能員於病床、令談合給、追討之儀、且及許諾、而尼御臺所隔障子、潜令伺聞此密事給、爲被告申、以女房被奉尋遠州、爲修佛事、已歸名越給之由、令申之間、雖非委細之趣、聊載此子細於御書、付美女被進之、彼女奉奔付于路次、捧御書、遠州下馬拜見之、頗落涙、更乗馬之後、止駕暫有思案等之氣、遂廻轡渡御于大膳大夫廣元朝臣亭、々主奉相逢之、遠州被仰合云、近年能員振威蔑如諸人條、世之所知也、剰將軍病疾之今、窺惘然之期、掠而稱將命、欲企逆謀之由、慥聞于告、此上先可征之歟、如何者、大官令答申云、幕下將軍御時以降、有扶政道之号、於兵法者、不弁是非、誅戮實否、宜有賢慮云々、遠州聞此詞、即起座給、天野民部入道蓮景、新田四郎忠常等爲御共、於荏柄社前、又扣御駕、被仰件兩人云、能員依企謀叛、今日可追伐、各可爲討手者、蓮景云、不能發軍兵、召寄御前、可被誅之、彼老翁有何事之哉者、令還御亭給之後、此事猶有儀、重爲談合、被招大官令、々々々雖有思慮之氣、憖以欲參向、家人等多以進從之處、稱有存念悉留之、只相具飯冨源太宗長許、路次之間、大官令密語于宗長云、世上之爲躰、尤可怖畏歟、於重事者、今朝被凝細碎評議訖、而又恩喚之條、太難得其意、若有不慮事者、汝先可害予者、爾後至名越殿、遠州御對面良久、此間、宗長在大官令之後、不去座云々、午尅、大官令退出、遠州於此御亭、令供養藥師如來像〈日來奉造之、〉給、葉上律師爲導師、尼御臺所爲御結縁、可有入御云々、遠州以工藤五郎爲使、被仰遣能員之許云、依宿願、有佛像供養之儀、御來臨、可被聽聞歟、且又以次可談雜事者、早申可豫參之由、御使退去之後、廷尉子息親類等諫云、日來非無計儀事、若依有風聞之旨、預専使歟、無左右不可被參向、縱雖可被參、令家子郎從等、着甲冑帶弓矢、可被相從云々、能員云、如然之行粧、敢非警固之備、謬可成人疑之因也、當時能員猶召具甲冑兵士者、鎌倉中諸人皆可遽騒、其事不可然、且爲佛事結縁、且就御讓補等事、有可被仰合事哉、忩可參者、遠州着甲冑給、召中野四郎・市河別當五郎、帶弓箭可儲兩方小門之旨下知給、仍取分征箭一腰於二、各手夾之、立件兩門、彼等依爲勝射手、應此仰云々、蓮景・忠常、着腹巻、搆于西南脇戸内、小時廷尉參入、着平礼白水干葛袴、駕黒馬、郎等二人、雜色五人有共、入惣門、昇廊沓脱、通妻戸、擬參北面、于時蓮景、忠常等立向于造合脇戸之砌、取廷尉左右手、引伏于山本竹中、誅戮不廻踵、遠州出於出居見之給云々、廷尉僮撲奔歸宿廬、告事由、仍彼一族郎從等引籠一幡君御舘、〈號小御所〉、謀叛之間、未三尅、依尼御臺所之仰、爲追討件輩、被差遣軍兵、所謂、江馬四郎殿、同太郎主、武藏守朝政、小山左衛門尉朝政、同五郎宗政、同七郎朝光、畠山二郎重忠、榛谷四郎重朝、三浦平六兵衛尉義村、和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、同小四郎景長、土肥先二郎帷光、後藤左衛門尉信康、所右衛門尉朝光、尾藤次知景、工藤小次郎行光、金窪太郎行親、加藤次郎景廉、同太郎景朝、仁田四郎忠常已下如雲霞、各襲到彼所、比企三郎、同四郎、同五郎、河原田次郎、〈能員猶子〉、笠原十郎左衛門尉親景、中山五郎爲重、糟屋藤太兵衛尉有季〈已上三人能員聟、〉等防戰、敢不愁死之間、挑戰及申尅、景朝・景廉・知景・景長等、并郎從數輩被疵頗引退、重忠入替壯力之郎從責攻之、親景等不敵彼武威、放火于舘、各於若君御前自殺、若君同不免此殃給、廷尉嫡男餘一兵衛尉假姿於女人、雖遁出戰場、於路次、爲景廉被梟首、其後、遠州遣大岳判官時親、被實檢死骸等云々、入夜被誅澁河刑部烝、依爲能員之舅也、

 

 「書き下し文」

 二日丁卯、今朝、廷尉能員、息女〈将軍家の妾、若公の母儀なり、元若狭局と号す〉を以て訴へ申す、北條殿、偏に追討すべき由なり、凡そ家督の外、地頭職を相分けらるるに於いては、威権二つに分かれ、挑み争ふの條疑ふべからず、子のため弟のため、静謐の御計らひに似ると雖も、還つて乱国の基を招く所なり、遠州一族存ぜられば、家督の世を奪はるるの事、又以て異儀無しと云々、将軍驚きて能員を病床に招き、談合せしめ給ひ、追討の儀、且つは許諾に及ぶ、而るに尼御台所障子を隔て、潛かに此の密事を伺ひ聞かしめ給ひ、告げ申されんがため、女房を以て遠州を尋ね奉らる、佛事を修せんがため、已に名越に帰り給ふの由、申さしむるの間、委細の趣に非ずと雖も、聊か此の子細を御書に載せ、美女に付し之を進らせらる、彼の女路次に奔り付き奉り、御書を捧ぐ、遠州下馬し之を拝見す、頗る落涙し、更に乗馬の後、駕を止め暫く思案等の気有り、遂に轡を廻し大膳大夫廣元朝臣が亭に渡御す、亭主之に相逢ひ奉り、遠州仰せ合せられて云く、近年能員威を振るひ諸人を蔑如するの條、世の知る所なり、剰え将軍病疾の今、憫然の期を窺ひ、掠めて将命と称し、逆謀を企てんと欲するの由、慥に告げを聞く、此の上は先ず之を征すべきか、如何てへり、大官令答へ申して云く、幕下将軍の御時以降、政道を扶くるの号有り、兵法に於いては、是非を弁へず、誅戮の実否、宜しく賢慮有るべしと云々、遠州此の詞を聞き、即ち起座し給ふ、天野民部入道蓮景、新田四郎忠常等御共として、莅柄社の前に於いて、又御駕を扣へ、件の両人に仰せられて云く、能員謀叛を企つるにより、今日追伐すべし、各々討手たるべしてへり、蓮景云く、軍兵を発する能はず、御前に召し寄せ、之を誅せらるべし、彼の老翁何事か之有らんやてへり、御亭に還らしめ給ふの後、此の事猶ほ儀有り、重ねて談合せんがため、大官令を招かる、大官令思慮の気有りと雖も、憖ひに以て参向せんと欲す、家人等多く以て進み従ふの処、存念有りと称し悉く之を留む、只飯富源太宗長ばかり相具す、路次の間、大官令密かに宗長に語りて云く、世上の為体、尤も怖畏すべきか、重事に於いては、今朝細碎の評議を擬せられ訖んぬ、而るに又恩喚の條、太だ其の意を得難し、若し不慮の事有らば、汝先ず予を害すべしてへり、爾後名越殿に至る、遠州御対面良久しくして、此の間宗長大官令の後に在りて、座を去らずと云々、午の尅大官令退出す、遠州此の御亭に於いて、薬師如来像(日来之を造り奉る)を供養せしめ給ふ、葉上律師導師として、尼御台所御結縁のため入御有るべしと云々、遠州工藤五郎を以て使ひとして、能員の許に仰せ遣はされて云く、宿願により佛像供養の儀有り、御来臨聴聞せらるべきか、且つ又次いでを以て雑事を談ずべしてへり、早く予参すべきの由を申す、御使ひ退去の後、廷尉の子息・親類等諫めて云く、日来計儀の事無きに非ず、若しや風聞の旨有るにより、専使に預かるか、左右無く参向せらるべからず、縦ひ参らるべしと雖も、家子郎従等をして甲冑を着し弓矢を帯びしめ、相従はるべしと云々、能員云く、然るがごときの行粧、敢へて警固の備へに非ずして、謬りて人の疑ひを成すべきの因なり、当時能員猶ほ甲冑の兵士を召し具せば、鎌倉中の諸人皆遽て騒ぐべし、其の事然るべからず、且つは佛事結縁のため、且つは御譲補等の事に就き、仰せ合はさるべき事有るか、忩ぎ参るべしてへり、遠州甲冑を着け給ひ、中野四郎・市河別当五郎を召し、弓箭を帯び両方の小門に儲くべきの旨下知し給ふ、仍て征箭一腰を二つに取り分け、各々之を手夾み、件の両門に立つ、彼等は勝れる射手たるにより、此の仰せに応ずと云々、蓮景・忠常腹巻を着し、西南脇戸の内に搆ふ、小時廷尉参入す、平礼の白き水干・葛袴を着し、黒馬に駕す、郎等二人・雑色五人共に有り、惣門に入り、廊の沓脱に昇り、妻戸を通り、北面に参らんと擬す、時に蓮景・忠常等造合の脇戸の砌に立ち向かひ、廷尉の左右の手を取り、山本の竹の中に引き伏せ、誅戮するに踵を廻さず、遠州出居に出で之を見給ふと云々、廷尉の僮僕宿廬に奔り帰り、事の由を告ぐ、仍て彼の一族・郎従等、一幡君の御館〈小御所と号す〉に引き籠もり謀叛するの間、未の三尅、尼御台所の仰せにより、件の輩を追討せんがため、軍兵を差し遣はさる、所謂江間四郎殿・同太郎主・武蔵守朝政・小山左衛門尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山次郎重忠・榛谷四郎重朝・三浦平六兵衛尉義村・和田左衛門尉義盛・同兵衛尉常盛・同小四郎景長・土肥先二郎惟光・後藤左衛門尉信康・所右衛門尉朝光・尾籐次知景・工藤小次郎行光・金窪太郎行親・加藤次郎景廉・同太郎景朝・仁田四郎忠常已下雲霞のごとし、各々彼の所に襲ひ到る、比企三郎・同四郎・同五郎・河原田次郎〈能員猶子〉・笠原十郎左衛門尉親景・中山五郎為重・糟屋籐太兵衛尉有季〈已上三人能員聟〉等防戦す、敢へて死を愁へざるの間、挑戦申の刻に及ぶ、景朝・景廉・知景・景長等并びに郎従数輩疵を被り頗る引き退く、重忠壮力の郎従を入れ替へ之を責め攻む、親景等彼の武威に敵はず、館に放火し、各々若君の御前に於いて自殺す、若君同じくこの殃を免れ給はず、廷尉の嫡男余一兵衛尉姿を女人に仮り、戦場を遁れ出づと雖も、路次に於いて景廉のために梟首せらる、其の後遠州大岳判官時親を遣はし、死骸等を実検せらると云々、夜に入り渋河刑部烝を誅せらる、能員の舅たるによるなり、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』7、吉川弘文館、2009)

 二日、丁卯。今朝、廷尉(比企)能員が娘〔将軍家(源頼家)の妾で若君(一幡)の母であり、元は若狭局という〕を通して訴え申した。「北条殿(時政)をともかく追討すべきです。そもそも家督(一幡)の他に、地頭職が分割されれば、威権が二つに分かれ、挑み争うことは疑いありません。子のため弟とのため、静謐(を求めて)のお計らいのようでありますが、かえって国の乱れを招く元です。遠州(時政)の一族が存在しては、一幡の治世が奪われることは、また疑いありません」。頼家は驚いて能員を病床に招いて相談され、追討のことを大方承諾された。そうしたところ尼御台所(政子)は障子を隔てて密かにこの密事を聞かれ、知らせ申し上げられるため、女房に時政を探し尋ねさせた。仏事を修するためにすでに名越に帰られたと(女房が)申したので、(政子は)細かい内容ではないが、少々この事情をご書状に記し、女性に託して進められた。この女は走って行く途中で(時政に)追いつき、ご書状を献上した。時政は下馬してこれを拝見し、たいそう涙を流した。ふたたび乗馬して後、(時政は)馬を止めてしばらく思案する様子で、ついに轡を廻らし大膳大夫(中原)広元朝臣の邸宅に渡られた。亭主(広元)が時政に対面すると、時政が相談された。「近年、能員が権威を振りかざして諸人をないがしろにすることは、世に知られている。そればかりか将軍が病気である今、意識のはっきりしない機会を狙い、偽って将軍の命令と称し、叛逆の陰謀を企てようとしていると、確かに報告を聞いた。この上は、まず能員を征伐すべきであろうか。どうである」。大官令(広元)が答え申し上げた。「幕下将軍(源頼朝)の御時より、政道に助力してはおりますが、兵法については、是非をわきまえていません。誅殺するか否かは、お考えにお任せします」。時政はこの言葉を聞くと、すぐに座を立たれた。天野民部入道蓮景(遠景)・新田四郎忠常をお供として、荏柄社の前でまた馬を留め、その両人に命じて言った。「能員が謀叛を企てたので、今日追討する。それぞれ討手を勤めよ」。蓮景が言った。「軍勢を派遣することはできません。(時政の)御前に(能員を)招き寄せ、誅殺されるのがよいでしょう。あの老人なら何の問題もないでしょう」。(時政が)ご邸宅に帰られた後、このことについてさらに議論があり、再び相談するために広元を招かれた。広元は逡巡する様子であったが、気の進まないまま出向こうとした。(広元の)家人が多く付き従おうとしたところ、(広元は)考えがあると言ってすべて押し留め、ただ飯富源太宗長だけを伴った。その途中で広元が密かに宗永に語った。「世の中の様子は、誠に恐るべきことである。重大事については、今朝こまごまと協議を詰められた。しかし再び(時政に)呼ばれることは、まことに理解しがたい。もし不慮のことがあれば、お前がまず私を手にかけよ」。その後、名越殿に到着した。時政とのご対面に時が過ぎたが、この間、宗長は広元の背後にいて、座を離れなかったという。午の刻に広元は退出した。時政はこの(名越の)ご邸宅で、このところ造っていた薬師如来像を供養され、葉上律師(栄西)を導師として、政子も結縁のためにいらっしゃるという。時政は工藤五郎を使者として、能員のもとに伝えられた。「宿願により仏像供養の儀式を行います。おいでになり聴聞されますように。そしてまた、この機会に種々の事柄を話しましょう」。(能員は)「早々に参ります。」と申した。御使者が退出した後に能員の子息・親類らが諌めて言った。「このところ(我々の)計略がないわけではありません。あるいは風聞があって、特使の派遣を受けたのではないでしょうか。たやすく(時政の元へ)出向かれてはなりません。たとえ参られるとしても、家子・郎従らに甲冑を着け弓矢を所持させ、お連れ下さい」。能員が言った。「そのような出で立ちは、全くの警護の備えではなく、間違って人の疑いを引き起こす元である。いま能員がなお甲冑を着けた兵士を引き連れたならば、鎌倉中の諸人はみなうろたえ騒ぐだろう。それはよくない。一方では仏事結縁のため、一方ではご譲与などのことについて、相談されたいことがあるのだろう。急いで参ろう」。時政は甲冑を着けられ、中野四郎・市河別当五郎(行重)を召して、弓矢を携えて両方の小門で待ち受けるように命じられた。そこで征矢一腰を二つに取り分けてそれぞれ手挟みその両門に立った。彼らは優れた射手であるため、この命令に応じたという。蓮景・忠常は腹巻を着けて西南の脇戸の内で待ち構えた。少しすると能員が入ってきた。平礼烏帽子・白い水干・葛袴を着て黒馬に乗り、郎党二人・雑色五人が供をしていた。惣門を入り、廊の沓脱に上がって妻戸を通り、北面を参ろうとした。その時、蓮景・忠常が作合の脇戸の際に立ち向かい、能員の左右の手を掴み、築山の麓の竹薮の中に引き倒して躊躇せず誅殺した。時政は出居に出てご覧になったという。能員の従者は宿所へ逃げ帰り、事情を告げた。そのため能員の一族・郎従らは小御所と称する一幡君の御館に立て籠もった。謀叛であるので、未の三刻に雅子のご命令により、その者たちを追討するために軍勢が派遣された。すなわち江馬四郎殿(北条義時)・同太郎主(北条泰時)・武蔵守(平賀)朝政・小山左衛門尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山二郎重忠・榛谷四郎重朝・三浦平六兵衛尉義村・和田左衛門尉義盛・同兵衛尉常盛・同小四郎景長・土肥先二郎惟平・後藤左衛門尉信康・所右衛門尉(藤原)朝光・尾藤次知景・工藤小次郎行光・金窪太郎行親・加藤次景廉・同太郎景朝・仁田四郎忠常をはじめ雲霞のごとく、それぞれ小御所へ襲来した。比企三郎・同四郎(時員)・同五郎、能員の猶子である河原田次郎、笠原十郎左衛門尉親景・中山五郎為重・糟屋藤太兵衛尉有季〔以上三人は能員の聟〕が防戦した。全くしを恐れていなかったので、戦闘は申の刻まで続いた。景朝・景廉・知景・景長ならびに郎従数人が傷を負って大きく退却した。重忠は壮力の郎従を入れ替え、比企一党を攻め立てた。親景らはその軍勢の勢いには対抗できず、館に火を放ち、それぞれ若君(一幡)の御前で自害した。若君も同じくこの災いから逃れることができなった。能員の嫡男である(比企)余一兵衛尉は姿を女人に変えて戦場を脱出したが、道の途中で景廉に首をとられた。その後、時政は大岡判官時親を派遣し、死骸などを実検されたという。夜に入り渋河刑部丞(兼忠)を誅殺された。能員の舅であったためである。

  

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「比企氏の乱」─建仁三年(1203)九月二日、比企能員北条時政に誘殺され、比

        企一族と源頼家の子一幡が滅ぼされた事件。正治元年(1199)正

        月源頼朝のあとを継いで将軍となった頼家は、専恣な行動が多く、同

        年四月には宿老による十三人の合議制が始められた。これに対し頼家

        は側近に鎌倉中勝手自由の特権を与えた。頼家の乳母夫比企能員は頼

        朝の側近として信任が厚く、上野・信濃の守護を勤めた。娘の若狭局

        が頼家に嫁して一幡を生んでいることからその外戚として、また頼家

        の側近に信濃の武士や子息らを送り込むなど、頼朝没後その権勢は北

        条氏を凌ぐようになっていた。比企氏の台頭に危機感を持っていた北

        条時政は、建仁三年八月、頼家が危篤になると、突然関東二十八ヵ国

        の地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西三十八ヵ国の地頭職を頼家

        の弟千幡(実朝)に譲与することを定めた。この決定に不満を持った

        能員は、同年九月頼家が回復すると時政の専横を訴え、頼家も時政追

        討を能員に命じた。この密議を聞いた北条政子はこれを父時政に伝え

        た。九月二日仏事にかこつけて時政に誘い出された能員は時政の名越

        亭で天野遠景・仁田(新田)忠常のために殺された。これを聞いた能

        員の子余市兵衛尉・三郎・四郎時員など比企一族は一幡の館(小御

        所)に引き籠もったが、政子の命により派遣された追討軍に攻めら

        れ、午後四時ごろ館に火をかけ一幡をはじめ比企一族は滅亡した。こ

        の夜能員の岳父渋河兼忠が殺され、能員与党として信濃の小笠原長

        経・中野能成などが捕らえられ、義姉丹後内侍の子島津忠久大隅

        薩摩・日向三国の守護職を没収された。同七日頼家は母政子の命によ

        り出家させられ、同二十九日伊豆国修善寺に幽閉され、将軍は実朝が

        継承した。以上が『吾妻鏡』による乱の経過であるが、『猪熊関白

        記』や『明月記』の同年九月七日条によれば、幕府は九月一日に重病

        であった将軍頼家が没したと朝廷に報告し、実朝の将軍継承が承認さ

        れており、また後者には頼家の没後の政権争いで一幡および比企氏が

        滅亡したという風聞も記されている。なお、『吾妻鏡』によれば、頼

        家は、翌元久元年(1204)七月十九日に没したとされているが、

        『愚管抄』などでは、北条氏の派遣した刺客のために殺されたという

        (『国史大辞典』)。 

比企能員」─?─1203(建仁3)鎌倉前期の武将。養母比企尼源頼朝の乳母で

       あったことから、挙兵以来頼朝に従った。娘が2代将軍源頼家に嫁し一

       幡を生み、外戚として権勢を振るったが、1203北条時政に謀殺され

       た(『角川新版日本史辞典)。

「若狭局」─?─1203(?─建仁三)。比企能員の娘。源頼家の妻妾となり、嫡男

      一幡を産む。『吾妻鏡』によれば、九月二日に能員が殺害されると、比企

      氏の一族らが一幡の住む小御所に立て籠もって合戦し、若狭局も一幡とと

      もに焼死したとする。

「名越」─現、神奈川県鎌倉市大町三─七丁目。

「遠景」─生没年未詳。天野景光の男。伊豆国田方郡天野を本拠とする武士で、頼朝に

     参じて鎮西奉行人となる。頼朝の死去により出家して蓮景と称す。

「宗長」─生没年未詳。飯富季貞の男。飯富源太と称す。元の名は宗季。

「工藤五郎」─生没年未詳。伊豆国の武士工藤氏の一族か。

「征矢」─戦闘に用いる矢。矢には用途により征矢・野矢(狩矢)・的矢・響目矢・威

     儀の矢があり、作りに違いがあった。

「平著烏帽子」─烏帽子の縁を特に設けず、前額部をくぼませないでかぶるもの。

「水干」─盤領(まるえり)形式の簡便な上着。下級のものが着用したが、次第に上層

     階級も着用するようになった。

「葛袴」─葛布で作った小袴。葛の袴。

「出居」─寝殿造に設けられた空間で、居間として、また来客接待用の部屋として用い

     られた。

「朝政」─?─1205(?─元久二)。平賀義信の男。父義信・兄惟義に続き武蔵守

     に任官。北条時政の娘婿で後鳥羽院にも仕えていたが、元久二年、北条時政

     の失脚を受けて京都で討たれる。朝雅とも。

「宗政」─1162─1241(応保二─仁治元)。小山政光の男。母は宇都宮宗綱の

     娘。下野国芳賀郡長沼庄を本拠として長沼五郎と称す。

「景長」─生没年未詳。三浦和田氏の一族で和田小四郎と称す。

「惟平」─原文「惟光」を改めた。生没年未詳。土肥(小早河)遠平の男。実平の孫。

「知景」─生没年未詳。尾藤知広の男。その子孫は、のちに北条得宗家の有力な被官と

     して活動。

「行親」─生没年未詳。北条義時に仕える武士。のちに建保元年五月、義時の下で侍所

     の所司となり、また和田合戦の恩賞として陸奥国金窪を賜る。

「景廉」─1156─1221(保元元─承久三)。加藤景清の男。光員の弟。治承・

     寿永の内乱期より頼朝に参じて、安田義資の誅殺などに当たったが、正治

     年正月、梶原景時の朋友として所領を没収されていた。

「景朝」─生没年未詳。加藤景廉の男。美濃国恵那郡遠山庄を本拠として、その子孫は

     遠山氏と称す。

「比企五郎」─?─1203(?─建仁三)。比企能員の男。比企氏の乱で討たれる。

「河原田次郎」─?─1203(?─建仁三)。比企能員の猶子。比企氏の乱で討たれ

        る。

「為重」─?─1203(?─建仁三)。中山五郎と称す。比企能員の婿。秩父氏の一

     族か。

「余一兵衛尉」─?─1203(?─建仁三)。比企能員の嫡男。正治二年正月、梶原

        景時の追討に派遣された比企兵衛尉はこの余一兵衛尉か。

「時親」─生没年未詳。牧宗親の男。北条時政の後室牧氏の兄。のちに備前守に任じら

     れるが、元久二年八月五日に時政の失脚を受けて出家する。

「兼忠」─?─1203(?─建仁三)。比企能員の婿。刑部丞に任官し、渋河刑部丞

     と称す。建暦三年に泉親衡の乱で捕らえられる刑部六郎兼守は兼忠の男と考

     えられる。

 

 

*この史料は「比企能員の乱」の関連記事です。比企能員が謀殺されたことを知った比企一族とその郎従らは、一幡君(源頼家の子)の御所に立て籠もり、北条軍と交戦します。ところが、北条軍の攻勢に対抗できず、とうとう御所に火を放ち、それぞれ一幡君の前で自殺したのでした。

 さて、この自殺のパターンも、敵に捕らえられるくらいなら、自ら命を絶ったほうがましだ、という考え方に基づいたものでしょう。北条軍から攻められ、対抗できないと悟ったことを原因動機として、敵に誅殺されることを避けたいという目的動機によって、自殺を遂行したと判断できそうです。

 それにしても、御所に火を放ったこと、そして一幡君の前で自殺したことに、いったいどのような意図があったのでしょうか。わざわざ屋敷に火をつけなくても、いちいち主君の御前で自殺しなくてもよいような気がするのですが、これ以上のことはわかりません。

(*2019.2.10追記:主君の前での自殺は、忠誠心を示すためかもしれません。大山眞一「中世武士の生死観(5)」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』10、2010・2、69頁参照)

 

 同様の記事は、4日後の九月六日条にもあり、新田忠時が台所に火を放ち、自殺をしています。これについても、その目的を読み取ることはできません。

 

 

 

【参考史料】

  建仁三年(一二〇三)九月六日条『吾妻鏡』第十七(『国史大系』第三二巻)

 六日辛未、及晩、遠州召仁田四郎忠常於名越御亭、是爲被行能員追討之賞也、而忠常參入御亭之後、雖臨昏黒、更不退出、舎人男恠此事、引彼乗馬、歸宅告事由於弟五郎六郎等、而可奉追討遠州之由、將軍家被仰合忠常事、令漏脱之間、已被罪科歟之由、彼輩加推量、忽爲果其憤、欲參江馬殿、々々々折節被候大御所、〈幕下將軍御遺跡、當時尼御臺所御坐〉、仍五郎已下輩奔參發矢、江馬殿令御家人等防禦給、五郎者爲波多野次郎忠綱被梟首、六郎者於臺所放火自殺、見件煙、御家人等競集、又忠常出名越、還私宅之刻、於途中聞之、則稱可弃命、參御所之處、爲加藤次景廉被誅畢、

 

 「書き下し文」

 六日辛未、晩に及び、遠州仁田四郎忠常を名越の御亭に召す、是れ能員追討の賞を行はれんがためなり、而るに忠常御亭に参入するの後、昏黒に臨むと雖も、更に退出せず、舎人の男此の事を怪しみ、彼の乗馬を引き、宅に帰り事の由を弟五郎・六郎等に告ぐ、而して遠州を追討し奉るべきの由、将軍家忠常に仰せ合はさるる事、漏脱せしむるの間、已に罪科せらるるかの由、彼の輩推量を加へ、忽ち其の憤りを果たさんがため、江馬殿に参らんと欲す、江馬殿折節大御所〈幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御座、〉に候ぜらる、仍て五郎已下の輩奔り参り矢を発つ、江馬殿御家人等をして防禦せしめ給ふ、五郎は波多野次郎忠綱のために梟首せられ、六郎は台所に於いて火を放ち自殺す、件の煙を見て、御家人等競ひ集ふ、又忠常名越を出て、私宅に還るの刻、途中に於いて之を聞き、則ち命を棄つべしと称し、御所に参るの処、加藤次景廉のために誅せられ畢んぬ、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』7、吉川弘文館、2009)

 六日、辛未。夕方になり、遠州北条時政)は新田四郎忠常を名越の御邸宅に呼ばれた。これは(比企)能員追討の恩賞を行われるためであった。しかし忠常は御邸宅に入った後、日暮れに近づいても、一向に退出しなかった。(忠常の)舎人の男はこのことを怪しみ、忠常の乗馬を引いて屋敷に帰り、事情を弟の五郎と六郎(忠時)に告げた。そこで、時政を追討するようにと将軍家(源頼家)が忠常に相談されたことが(時政に)漏れ聞こえたので、すでに処断されたのだろうかと、その者たちは推量を加え、すぐにもその憤りを晴らすため、江馬殿(北条義時)へ押しかけようとした。義時はちょうどその時、幕下将軍(源頼朝)ゆかりの地で現在は尼御台所(政子)がいらっしゃる大御所に祗候されていた。そこで五郎をはじめとする者たちが走り来て矢を放ち、義時は御家人らに防御させた。五郎は波多野次郎忠綱に首を取られ、忠時は台所に火を放って自害した。その煙を見て、御家人らが競い集まった。また忠常は名越(の時政邸)を出て私邸に帰る時、途中でこの騒ぎを聞き、「命を捨てる。」と言って御所に参上したところ、加藤次景廉に誅殺された。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「舎人」─貴人に仕える従者。牛車の牛飼、馬の口取りなどを指す。

「五郎」─?─1203(?─建仁三)。仁田忠常の弟。伊豆の武士。