周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 38 ─吾妻鏡7(殉死?)─

  【史料1】建保七年(一二一九)二月六日条

                   『吾妻鏡』第廿四(『国史大系』第三二巻)

 

 六日癸卯、故鶴岳別当闍梨使白河左衛門尉詣大神宮、遂奉幣還向之処、於三河国矢作宿、聞彼滅亡事自殺云々。

 

 「書き下し文」

 六日癸卯、故鶴岡別当闍梨の使ひ白河左衛門尉大神宮に詣で、奉幣を遂げ還向するの処、三河国矢作宿に於いて、彼の滅亡の事を聞き自殺すと云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』8、吉川弘文館、2010)

 六日癸卯、故鶴岡別当闍梨(公暁)の使者である白河左衛門尉(義典)が(伊勢)大神宮に参詣し、奉幣を行い(鎌倉に)帰る途中、三河国の矢作宿で公暁が滅んだと聞いて自殺したという。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

公暁」─1200─19(正和2─承久1)。鎌倉前期の鶴岡八幡宮別当。父は2

     代将軍源頼家鶴岡八幡宮寺に入り、のちに別当となる。1219(承久

     1)叔父の3代将軍実朝を右大臣拝賀の儀において刺殺し、さらに将軍にな

     ろうとしたがはたせず、殺害された(『角川新版日本史辞典』)。

「矢作宿」─現、愛知県岡崎市。鎌倉末期、矢作川東西岸に東宿・西宿があり、東宿は

      同市八帖町付近、西宿は同市矢作町付近。

 

 

  【史料2】建保七年(一二一九)二月二十一日条

                   『吾妻鏡』第廿四(『国史大系』第三二巻)

 

 廿一日戊午、白河左衛門尉義典為悪別当使詣大神宮、剰於途中自殺之間、依其科被収公彼遺領、被補地頭、在相模国大庭御厨内之地云々、而祭主神祇大副隆宗朝臣、以加藤左衛門大夫光員、進状申云、義典遺跡内、於外家伝領御厨分者、輙難被収公歟、可被返付神宮者、仍即有其沙汰、可被付神宮之由、今日被定云々、

 

 「書き下し文」

 二十一日戊午、白河左衛門尉義典悪別当の使ひとして大神宮に詣づ、剰へ途中に於いて自殺するの間、其の科により彼の遺領を収公せられ、地頭を補せらる、相模国大庭御厨内の地に在ると云々、而るに祭主神祇大副隆宗朝臣、加藤左衛門大夫光員を以て、状を進らせ申して云く、義典遺跡の内、外家伝領の御厨分に於いては、輙ち収公せられ難きか、神宮に返し付けらるべしてへり、仍て即ち其の沙汰有り、神宮に付けらるべきの由、今日定めらると云々、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』8、吉川弘文館、2010)

 二十一日、戊午。白河左衛門尉義典が悪別当公暁)の使者として(伊勢)大神宮に参詣し、その上に道中で自殺したので、その罪科により義典の遺領が没収され、地頭が補任された。相模国の大庭御厨内の地という。そうしたところ、祭主の神祇大副(大中臣)隆宗朝臣が加藤左衛門大夫光員を通じて文書を提出して訴えた。「義典の遺領の中で、外戚の家が伝領していた御厨については、簡単には没収できないものです。神宮に返付されるように」。そこですぐにその審議があり、神宮に返付するよう今日決定された。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「大庭御厨」─相模国高座郡。現、神奈川県藤沢市大庭付近。開発領主鎌倉景政の子孫

       大庭氏が代々御厨司・下司職を世襲。久安元年には源義朝が御厨内の鵠

       沼郷に乱入している。

「隆宗」─1168─1226(仁安3─嘉禄2)大中臣能隆の男。母は卜部兼友の

     娘。

 

鶴岡八幡宮別当公暁が殺害されたという情報を知り、彼の使者として伊勢神宮へ向かった白河義典は、その帰途で自殺しました。判明する情報はこれだけなので、これ以上の自殺の原因や目的ははっきりしません。状況だけみると、殉死の可能性もありそうです。